自然を自分の思うように

葛飾北斎

きょうは江戸時代の浮世絵師 葛飾北斎(かつしか ほくさい、幼名:時太郎 後に鉄蔵)の誕生日だ。
1760(宝暦10)年生誕〜1849(嘉永2)年逝去(88歳)。

江戸本所割下水(現 東京都墨田区亀沢)に生まれた。その一帯を葛飾と呼んだのでそれを姓とした。父は川村某であったが、4歳のとき、幕府用達鏡師 中島伊勢の養子となった。
幼いころから物の形を移す癖があったといい、少年時代に木版彫刻を学びながら、七色唐辛子などを行商し、その日その日を過ごしていた。

1779(安永8)年19歳の時、勝川春朗の画号をもって浮世絵画壇に登場した。以降約15年間、役者似顔絵、肉筆美人画の名手 勝川春章の下で役者絵や美人画、戯作の挿絵などに筆を揮(ふる)った。
また狩野融川、俵屋宗理、住吉広行らからも画法を学んでいる。司馬江漢の西洋風の銅版画法も研究し、中国の画法も学んだ。そして日本、中国、西洋の画法のそれぞれを取り入れて、「北斎風」といわれる画風を作りあげた。
勝川派から離脱した北斎は、1794(寛政6)年34歳の時、「俵屋宗理(たわらや そうり)」と号して自らの個性を自由に表出し始め、特に美人画では、憂いを含んだ「宗理様式」と称される画風を完成し、狂歌絵本や摺物(すりもの:俳句や狂歌などに絵をそえて1枚摺りにしたもの)に清新な若さ漲(みなぎ)る佳作を遺した。

1798(寛政10)年38歳の時、宗理の号を門人に譲った北斎は、「北斎辰政」と号し、以降どの画派にも属することなく、独立の画業を全うした。1805(文化2)年から「葛飾北斎」の号を用いた。

享和年間(1801〜1803年)から洋風画の制作を試みた北斎は、文化年間(1804〜1818年)に至ると、長編小説の読本挿絵に筆を揮い、馬琴作「椿説弓張月」など近世文学に欠くことのできない作品を数多く手がけた。この時期の肉筆画は、北斎の生涯中、美人など最も多くの風俗画を描いている点でも注目される。

読本挿絵と肉筆画の分野に傾注した北斎は1810(文化7)年、画号を「戴斗(たいと)」と改め、1814(文化11)年54歳の時、「北斎漫画」初編を版行した。これを期に北斎は、集中的に様々な内容の絵手本を発表した。絵手本への傾注は、人気の高さから私淑者や門人が多数存在していたことを窺わせる。

1820(文政3)年60歳の時、正月の摺物に、北斎北斎改為一と署名している。1833(天保4)年まで続く「為一」の年代には、生涯のうち最も錦絵に傾注した。

富嶽三十六景」「諸国瀧廻り」「千絵の海」「詩歌写真鏡」など北斎の代表作とされる風景版画や花鳥画などは、その大半がこの年代に刊行された。この時期の肉筆画は寡作といえるが、独特な花鳥画に加え、美人画のほぼ最後を飾る優品ぞろいの年代といえる。

北斎74歳の1834(天保5)年、風景絵本の傑作「富嶽百景」初編を上梓した。この書中に画狂老人「卍」と署し、百有十歳までの長寿と、それに伴う作画への情熱を跋文(ばつぶん:あとがき)で表明している。

北斎はこれ以降、木版画界では絵本や絵手本を除き、錦絵の分野から急速に遠ざかり、最晩年の精力を、動植物や宗教的題材、あるいは和漢の故事古典に基づく歴史画や物語絵など、肉筆画の分野に注いだ。

北斎が小布施に現れたのは1842(天保13)年、82歳の時だった。江戸で知り合った小布施の商人 高井鴻山に招かれてやってきた北斎は、これ以降小布施に足を運ぶこと4回、最後に訪れたのは87歳の時だった。

小布施ではもっぱら肉筆画に徹して祭り屋台の天井絵、岩松院の天井絵などの傑作を残した。北斎は、最後の小布施逗留から江戸へ帰った翌年の1849(嘉永2)年、88歳の生涯を閉じた。
 辞世の句 「人魂で 行く気散じや 夏野原」

生涯引越し回数96回が確認され画号の多さと共に奇人との風評もある。また旅行好きで、よく各地に出かけていたが、これは彼が風景画を書くのに大変役立った。広重が自然のままに描いたのに対し、彼は自然を自分の思うように変化させて描いた。人物画では、人物の活躍する姿をとらえ、表情の豊かな、いまにも動き出しそうな絵を描いた。

彼の絵は、ヨーロッパに渡り、ゴッホセザンヌドガなどの画家に大きな影響をあたえた。代表作の「富岳三十六景」は世界的に有名。

数年前、アメリカの「ライフ」誌が世界のあらゆる分野から、この1000年間に最も偉大な業績を残した100人は誰かというアンケートをしたとき、日本からは唯一、北斎だけがランクインした。彼は本家本元の日本より、むしろその評価は、古くから欧米で熱狂的なほど高く、今なお賞賛の声は衰えることを知らない。

葛飾北斎は、号を30回変え、引越しも100回近くしている。画風を変えるたびに号を変え、気分転換のために引越しをしたのだろうか。それにしても多すぎる感じはあるが、遊牧民族のような生活が合っていたのかも知れない。

企業においても、部署の異動や転勤は家族のことなど考えると一大事であるが、グローバルな感覚からすると、世界中がふるさとであり、その方が考え方も大きくおおらかになるような気がする。


葛飾北斎最期の言葉
  「天が私にあと十年の時を、いや五年の命を与えてくれるのなら、
   本当の絵描きになってみせるものを」


葛飾北斎の作品
    
   尾州不二見原                酔夜美人図


葛飾北斎の本
  北斎肉筆画大成
  多満佳津良 葛飾北斎 (江戸名作艶本)
  北斎 (江戸を読む)
  もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
  葛飾北斎 (新潮日本美術文庫)
葛飾北斎 (新潮日本美術文庫)もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)北斎肉筆画大成