the soul of Japan

新渡戸稲造

きょうは「Bushido」を世界に紹介した教育者 新渡戸稲造(にとべ いなぞう、幼名:稲之助)の誕生日だ。
1862(文久2)年生誕〜1933(昭和8)年逝去(71歳)。

盛岡南部藩(現 岩手県盛岡市鷹匠小路藩士 新渡戸十次郎・母 せきの三男として生まれた。祖父 傳(つとう)の開拓地 三本木で初めて米が収穫されたので、稲之助と命名された。
父は江戸勘定奉行までなったが、稲造が4歳の時1867(慶應3)年亡くなった。

そこで、祖父と母は相談して、稲造を東京に住む父 十次郎の弟、太田時敏の養子にして、教育の支援をしてもらうことにした。1871(明治4)年8月、養子となった稲造は、兄 道郎と一緒に上京した。このとき、数え年で10歳だった。
養父の勧めにより築地の英語学校に入ったが、盛岡にいるときから英語を学んでいたので上達は早かった。1872(明治5)年、兄と稲造は藩校「共憤義塾」に入学した。後の北大総長となる佐藤昌介は上級生だった。

ここでも稲造はよく勉強し、養父は開設したばかりの東京外国語学校に入学させた。東京外国語学校は、明治10年に東京開成学校が東京大学になったときに、付属学校として東京大学予備門となり、第一高等学校の前身となった。

1876(明治9)年14歳の時、札幌農学校(現在の北海道大学)が設立された。政府は東京外国語学校の最上級生に対し、札幌農学校官費生の募集をした。養父の負担を軽くするため、稲造は試験を受け、合格したが、規定より2歳若く、二期生として入学が許可された。二期生には、内村鑑三、宮部金吾などがいた。

1877(明治10)年15歳の時、札幌農学校入学のため、稲造たち二期生は、玄武丸に乗り、品川を出発し函館を経由して小樽に上陸、札幌に到着した。
そこで"Boys, be ambitious! "のクラーク博士の教えに心酔して洗礼を受けキリスト教徒になった。1881(明治14)年に、札幌農学校を卒業した。

その前年の夏休みに、勉強しすぎて神経衰弱になった稲造は伊香保温泉に1か月療養することになった。盛岡に立ち寄ったが、3日前に母は亡くなっていた。彼は9歳のとき上京してから、度々激励の手紙をもらったが、とうとう生前の母には会えなかった。

稲造は、札幌農学校規則により、開拓使に勤務した。しかし、学問への思いは強く、開拓使を辞職して1883(明治16)年21歳の時、東京大学文科大学に入学した。英語を通じて西洋の学問を日本に取り入れる手助けをしたいと思った稲造だったが、大学の勉強に期待を裏切られ、1884(明治17)年に東大を退学し、9月に留学のため渡米した。

1884(明治17)年10月からボルチモアジョンズ・ホプキンス大学大学院に留学した。そして、1887(明治20)年3月に札幌農学校助教授に任命され、官命により農政学を研究するため、5月にドイツに渡った。

まずボン大学に行き、1年1か月ほど滞在した。ボン滞在中に、ベルギーのラヴェレー教授に手紙を書いた。この学者はリェージュ大学の教授で、稲造はアメリカにいるときから憧れていた。そして、ラヴェレー教授の招待状を受け取り、教授宅に1週間泊めてもらった。

1887(明治20)年9月25歳の時からベルリン大学で研究を続けた。そして、1889(明治22)年4月にハレ大学に移り、ここで博士論文を提出した。なお、ハレはライプツィヒの近くで、旧東独にあった。

そのころ、彼はジョンズ・ホプキンス大学から文学士を受けた。このことは婚約者メアリーの両親に対して、結婚を進める条件になった。3年間ジョンズ・ホプキンス大学にいて学士号さえ取らなかった男には娘はやれないと言われていた。

1890(明治23)年7月27歳の時にアメリカに戻りジョンズ・ホプキンス大学での3年間の研究をまとめて「日米関係史」の出版準備をした。婚約者メアリー・エルキントンの助けを受け出版できた。翌1891(明治24)年1月に彼女と結婚し、それから間もなく二人は日本に向かった。この結婚は国際結婚のはしりでもあった。

1891(明治24年)2月28歳で帰国、3月に札幌到着。札幌農学校教授となった。その上、北海道庁技師も兼ね、北海道開拓に尽くした。一時は廃校の話もあった札幌農学校は国立となり、1895(明治28)年7月に彼は農学校の舎監となり、学生の面倒をよくみた。

しかし、農学校教授、道庁技師、(私立中学)北鳴学校教頭、日曜学校セツルメント事業などの激務のため健康を害して、1897(明治30)年10月35歳のとき療養のため札幌を離れた。以後札幌に戻ることはなく、1898(明治31)年に渡米し、「武士道」出版の準備をした。「武士道」は1900(明治33)年に出版された。

1901(明治34)年2月38歳の時、台湾総督府技師となり、台湾製糖業確立に功績を挙げた。その後、京大教授、一高校長、東大教授、東京女子大学初代学長、国際連盟事務次長、貴族院議員と次々に世界の檜舞台に登場し、「国際連盟の輝く星」とまで賞賛された。

晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党軍閥である」と新聞紙上で述べ、軍部や右翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去った。一方、日米戦争を回避するためにアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。

1933(昭和8)年夏バンクーバーを「太平洋会議」出席のため訪れていた時、腹痛を訴えビクトリア市内の病院に入院、そこで亡くなった。享年71歳だった。

新渡戸稲造は、農政学者、教育者、思想家として各種公職に就くが、キリスト教信者として国際親善にも尽くした。日本の武士道の精神を紹介した「Bushido-the soul of Japan」を刊行、この本は非常に評判となり日本文化の海外への紹介に大いに貢献した。また、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えた。

企業においても、正義感と中立の精神だけでは誰からも相手にされず、浮いてしまうことがある。それに耐えられなければ、どちらかに付くしかない。それができないなら、しばらくはじっと我慢するか、個人的な理解者を見つけて意を強くするのが良いかもしれない。


新渡戸稲造のことば
  「私は太平洋の架け橋になりたい」
  「橋は一人では架けられない。何世代にも受け継がれてはじめて架けられる」
  「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」
  「継続は力なり」 


新渡戸稲造の本
  武士道 (岩波文庫 青118-1)
  修養 (タチバナ教養文庫)
  自警録 (講談社学術文庫)
  国際人新渡戸稲造―武士道とキリスト教
  新渡戸稲造美しき日本人 (ワニの選書)
新渡戸稲造美しき日本人 (ワニの選書)自警録 (講談社学術文庫)修養 (タチバナ教養文庫)武士道 (岩波文庫 青118-1)