天才にありがちな人格的偏向

三浦梅園

きょうは豊後聖人といわれた江戸時代の思想家 三浦梅園(みうら ばいえん、名:晋 すすむ、字:安貞 あんてい、号:梅園)の誕生日だ。
1723(享保8)年生誕〜1789(寛政元)年逝去(65歳)。

豊後の国東(くにさき)郡富永村(現 大分県東国東郡安岐町大字富清)に生まれた。諸侯から招聘を受けてもすべて辞退し、生涯仕えることなく、この山村で医を業とし、読書と著述の日々を送るかたわら家塾を開き、同地に没した。旅に出ること、伊勢参り一回、長崎遊学二回。この生涯三度の旅以外は、ときおり杵築(きつき)に買い物に出るなど以外は、同地で過ごした。

幼少期より聡明で、周囲の大人を驚かすことたびたびあった。13歳の時、『和漢朗詠集』を筆写したものが、今日残されている最も古い自筆本である。15歳の時から詩に志し、21歳の時『独嘯集』(どくしょうしゅう)という詩集を著した。
20歳の時、中国の星学(天文学)の書を読み、簡天儀(天球儀)をつくるなど、年少のころから関心をもっていた自然現象の法則性に関する思索を独力で続け、宇宙の構造と人倫を貫く自然哲学的な体系を構築しようとしたところに、その思想的特徴がある。

詩作に熱心であり、詩人としての力量を持っていた。読めない文字があればそれを書きとどめ、月に数回、4キロばかり離れた西白寺という寺に通って、その寺の辞書を借りて調べた。事あるごとに心境を詩に託した。詩作に秀でていたばかりでなく、和漢の詩に通じ、後年江戸期を通じて最高の詩論と評される『詩轍』(してつ、1781年天明元年58歳完成)を著した。

書の大家ともなった梅園は、詩と同じく彼の人柄をあらわしており、剛毅な精神力、透徹した眼力を示す筆跡は見事である。20代半ば以前に、既に自身の書体を確立していたようだ。

一方、異常に鋭敏な知性と論理的思考力を持っており、天地一切を疑い、その懐疑はとどまることがなかった。なぜ物体が上から下に落ち、下から上に落ちないのか、なぜ目が音を聞かず、耳がものを見ないのか、それすら分からず、思念(しねん:心に深く思っていること)が胸を塞いだと述懐している。

悶々として謎の解けぬ世界にあって思索に思索を重ね、29歳の時「始(初)めて気に観るあり、漸く天地に条理あるを知る」と京都の高伯起(こう たかおき)に宛てた書簡の中に記している。

翌年30歳の時、畢生(ひっせい:生涯)の大著『玄語』(げんご:ものごとの筋道)を起草した。初めは『玄論』と名付けられ、のち『垂綸子』『元気論』と改名され、33歳までに改稿すること10回。この10稿目に『玄語』と命名され、最終稿に至るまで変わらない。

1775(安永4)年「歴年二十三、換稿も亦二十三」と書かれた「安永四年本(もしくは単に安永本)玄語」を完成するが、65歳より24回目の改稿に取りかかり、未完のままこの大著を残した。これを「浄書本玄語」という。

梅園は死を目前にして、長子 三浦黄鶴(みうら こうかく)に『玄語』の校訂を遺言した。黄鶴は、梅園晩年の弟子 矢野毅卿(やの きけい、名:弘)とともに、生涯をかけて、玄語稿本の校訂を行った。これが今日一般に伝わる『玄語』である。これを「版下本玄語」という。

出版のために準備されたものだったが、その資金が足りず、1912(大正元)年に『梅園全集(上・下)』が発行されるまで、人目に触れることはなかった。そして、このとき初めて『玄語』が衆目に触れ得た。しかし、黄鶴の校訂は、全体には不統一があり、細部には独断による変更があって、校訂意図が不明瞭であった。

『玄語』が未完に終わったのとは対照的に、第二主著『贅語』(ぜいご)は歴年三十四、換稿十五回にして梅園没年に完成した。第三主著『敢語』(かんご)は、玄贅二語ほどの労力を要さず、41歳にして完成した。歴年四、換稿四回であった。これらを合わせて「梅園三語」と呼ぶ。
 「梅園三語」:条理を理論的に体系づけて論じた「玄語」、古来からの諸説を条理によって批判検討した「贅語」、それを道徳、政治に施した実践編となる「敢語」。

梅園の生涯は、この三著の完成に捧げられたのであるが、第一主著『玄語』のみが、大きな可能性をはらんだまま、未完に終わってしまった。しかしこの著作には、日本人自身が考えた日本の合理思想が明確に浮き彫りにされており、日本の合理思想が欧米に比べて遜色ないばかりか、その欠落を補う可能性のあるものであることが知られる。

経済学書の『価原』(1773)は、杵築の藩士上田養伯の問い合わせを動機としたもので、以前から世の経済状態には憂いを持っていたようだ。経済の現象を根元から考えることによって賃金や物価の本質に迫っている。
明治になって河上肇、福田徳三により、江戸時代の経済論、貨幣論として傑出したものであることが明らかにされた。

梅園は政治経済について実践的な活動を行っている。仕官はしなかったが、藩主に助言を行い、64歳の時に「丙午封事」を書いた。
彼は、藩主に下情に達することの重要性を述べ、藩主はこの封事(君主への意見書)を常に机の上に置いていたようだ。

梅園は、天才にありがちな人格的偏向をいささかも持っていない人であった。学問においては甚だ厳格であり、諸方の学者を糾弾することもしばしばであったが、人となりは温厚で、村人の良き相談相手であり、もめ事の調停に秀れ、よくいさかいを治め、「豊後聖人」として多くの人々から慕われた。

彼自身の日常生活は質素で倹約につとめ、毎年末には貧しい人々に米や塩を贈っていた。とくに、1756(宝暦6)年の大凶作のときには、村の世話人として「慈悲無尽興行旨趣」を書いて、困った人を助けるために物資を提供するように呼びかけ、これらの物資は村の共有財産として、苦しんでいる人々を助けた。

家は代々医を生業(なりわい)とし、梅園自身も村の医師であった。先祖を敬う心に篤く、父の死後、三浦家一統の墓石を一ヶ所に集め、一日三度の墓参を欠かさなかった。これは最晩年まで続き、老齢に至ってからも、一日二度の墓参は欠かさなかった。梅園がこのつとめをやめたのは、自身の死の数日前であった。

三浦梅園は、あえて肩書きをつければ哲学者・経済学者・自然科学者・医学者だが、儒学以外の先生はいない。独学で思索を重ねて考えに考えて真理を発見するという条理学を提案し、本来あるべき姿をことば表している。徹底した哲学的思考を貫いた思想家であったようだ。

企業においては、自分自身の勉強は非常に大切だが、不明点や不足している点は人に聞く方が効果大でありスピーディである。現代においては人の知恵をいかに使うかも技術のうちだ。


三浦梅園のことば
  「金とは五金の総名なり。分かっていえば金・銀・銅・鉛・鉄。五金の内にては
   鉄を至宝とす。如何となれば、鉄その価廉にして、その用広し、
   民生一日も無くんば有るべからず」
  「学問は飯と心得べし。腹にあくが為なり。
   掛け物などの様に人に見せんずる為にはあらず」
  「足の皮はあつきがよし。つらの皮はうすきがよし」


三浦梅園の本三浦梅園自然哲学論集 (岩波文庫)
  三浦梅園自然哲学論集 (岩波文庫)
  三浦梅園の思想
  黒い言葉の空間―三浦梅園の自然哲学
  三浦梅園 (人物叢書)
  三浦梅園の世界―空間論と自然哲学