はるか遠くを見つめる

藤山雷太

きょうは藤山コンチェルンを創業した東洋の砂糖王 藤山雷太(ふじやま らいた)の誕生日だ。
1863(文久3)年生誕〜1938(昭和13)年逝去(75歳)。

肥前国松浦郡二里町大里(現 佐賀県伊万里市)の大庄屋 藤山覚右衛門の三男に生まれる。誕生日が大里の八幡神社の祭日で、折からの雨に藤山家の庭のセンダンの木に落雷があったので、雷太と名付けられた。

雷太は、5歳のころから漢学や書を学び、11歳になると漢学者 草場船山の啓蒙塾(後の伊万里小学校)に入門した。そこで、才能を認められ、船山に連れられて京都で勉強をした。3年後に京都から帰ると長崎師範学校に入学し、1880(明治13)年17歳の時、首席で卒業した。
卒業後、小学校の教師になり、一年後には母校長崎師範学校に迎えられた。
しかし、もっと勉強したいという気持ちを捨て切れず、上京して慶応義塾大学へ入学した。大学では福沢諭吉の下で学び、「天下国家のために尽くす」という気持ちを持つようになった。

大学を卒業して佐賀にもどった雷太は、26歳という若さで佐賀県会議員に立候補し当選した。議員になった雷太は、外国人の居留地問題や水道敷設問題など多くの難題を解決し、その力量を買われて議長に推された。

しかし、「国家のために尽くしたい」という気持ちはますます強くなるばかりで、雷太は国会議員として自分を試そうと思った。ところが、国会議員になるには30歳以上でなければならず、その年1892(明治25)年は29歳だった。

次の選挙まで待てば立候補できるが、一日も早く中央で働きたいという気持ちを押さえることができず、雷太は県会議員を辞めた。このことを知った恩師 福沢諭吉は「三井銀行」を紹介してくれた。これが、雷太の一生を大きく変えることになった。

このとき、雷太は「われわれは国家の将来を開いていかねばならない。今、最も大切なことは西洋各国に遅れずに、日本を豊かにすることだ」と語った。こうして実業界への大きな第一歩を踏み出した雷太の働きは目覚ましいものがあった。

2年後、理事の中上川彦次郎に見込まれて「芝浦製作所」の所長に抜擢された。芝浦製作所は、日本で最も古い電機製作会社で時代の最先端をいく会社だったが、業績は決しておもわしくなかった。雷太はみずから先頭に立って経営を立て直し、すばらしい会社に育て上げた。

その後、三井財閥は「王子製紙株式会社」の乗っ取りに成功し、雷太は専務として乗り込んだ。ここでも多くの苦難が待ち受け、重い病気にもかかったが、原料になる木を捜してまわったり新しい技術をすすんで取り入れたりして会社を復興させた。

他にも東京市街電鉄、日本火災、帝国劇場などの創立に参加し、行く先々で、すばらしい成果を上げた。それは、雷太の将来を見通す力がすぐれていたこともあるが、「国家のために尽くす」という強い信念を持ちつづけていたからとも言える。

こうして少しずつ実力をつけていった雷太は、当時経済界の第一人者であった渋沢栄一男爵の依頼を受け、1909(明治42)46歳で「大日本製糖株式会社」の社長になった。そのころ、この会社は日本で一番大きな製糖会社だったが、経営は非常に悪く倒産寸前だった。

さすがにこのときは重大な決意でその願いを引き受けた。多くの外国人も株主として投資をしていたから、日本を代表するこの会社が倒産することは、日本の信用にかかわる問題だった。雷太は、日本の工業発展のため、また数千名の株主や社員のため自分を犠牲にする覚悟だった。

大日本製糖に乗り込んだ雷太は、そのすぐれた指導力と経営手腕を発揮し、台湾における粗糖生産の拡大などによってわずか5年間で業績を盛り返し、名実ともに日本一の製糖会社に育て上げた。この働きは日本国中で注目を集め、ついに「日本の砂糖王」とまでもてはやされるようになった。

後には、日糖を中心に保険、銀行、電力、紡績、鉄道などいろいろな事業にも手を広げ、一代で藤山コンツェルン(財閥)を築き上げた。財界の信用も篤く、藤山財閥は日本十大財閥の一つに挙げられた。また東京商工会議所初代会頭や経済審議会委員、鉄道審議会委員、人口食料問題調査委員など多くの公職にも就いた。

雷太はわが国の産業経済の発展に大きく貢献した。また中国、東南アジアはもとより欧米視察にも何回も出かけた。これらの功績によって1919年(大正8)年56歳の時に藍綬褒章、1923(大正12)年には紺綬褒章を受賞し、さらには貴族院議員にも選ばれ、正五位勲三等の位も授けられた。

その上フランスの政府からはレジオン・ドノール・シュバリエ勲章、安南(今のベトナム)国王からグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
雷太の名声は日本だけでなく広く外国にも知れ渡っていた。

しかし雷太は自分を育ててくれた故郷 伊万里を忘れることはなかった。雷太は神を敬う気持ちが強く、今日自分があるのは神のおかげとして大里の八幡神社に、総銅板張りの社殿を建立し、大きな灯篭や鳥居を寄進した。社殿は残念ながら落雷によって焼失したが、灯篭と鳥居は今もそのまま残っている。

また、二里小学校には1937年(昭和12)年に当時のお金で千円もの奨学資金を寄付した。東京で活躍しながらも伊万里をこよなく愛した雷太の人柄がうかがえる。
「日本のために尽くしたい」という大きな志を持ち、多くの苦難に打ち勝ってわが国の産業経済発展の基礎を創った雷太は、1938(昭和13)年75歳で亡くなった。

全国の新聞はいっせいに、「財界の巨星落つ」と報じ、その死は国中の人々から惜しまれた。八幡神社には、偉大な業績をしのび、銅像が建てられた。
はるか遠くを見つめる雷太の目は、強い信念と大きな夢を持って努力することの大切さを教えている。

藤山雷太は、一代で藤山コンチェルンを築くが、それは諭吉から学んだ「天下国家のために尽くす」というわかりやすく大きな信念に支えられている。

企業においても、経営理念やビジョンなどわかりやすく大きく夢のある方針を示すことにより、社員全員の気持を方向付けすることができる。


藤山雷太に関する本
  中上川彦次郎の華麗な生涯中上川彦次郎の華麗な生涯