子どもの心の特殊性に即した
きょうは児童の情操教育に貢献した児童文学者 鈴木三重吉(すずき みえきち)の誕生日だ。
1882(明治15)年生誕〜1936(昭和11)年逝去(53歳)。
広島市猿楽町(現 広島市中区大手町)に生まれる。9歳のとき母を亡くした。本川小学校、広島一中、京都の第三高等学校を経て東京帝国大学文学部英文学科に入学。
在学中の1905(明治38)年23歳の時、神経衰弱と胃病に苦しめられ休学、その病気療養のため瀬戸内の能美島を訪れ、そこでの体験をもとに短編小説『千鳥』を書き上げた。
滞在先の娘をモデルにしたという薄幸の影を秘めた女性、お藤さんへの淡い想いを、島のさまざまな風物を背景に描いた叙情的な作品。三重吉が滞在した旧下田屋敷は中町港の近くにあり、『千鳥』記念碑も置かれている。『千鳥』は夏目漱石から絶賛され、高浜虚子の「ホトトギス」に載り、三重吉は期待の新鋭として一躍脚光を浴びた。
以後、旧制成田中学(現 成田高等学校)で英語の教師として教鞭をとるかたわら、山県郡加計町を舞台とした『山彦』などのロマンチシズムな作品を次々と発表し、漱石門下の中心として活躍を続けた。しかし、自然主義全盛の時代に受け入れられず、1915(大正4)年33歳の時にいったん筆を折ってしまった。
小説家としての行き詰まりを自覚した三重吉は、1916(大正5)年、長女 すずのために童話を書き始め、同年の童話集「湖水の女」ほか次々に子どものための作品を発表。「児童文学」に自らの進むべき道を見いだしていった。
1918(大正7)年36歳の時には森鴎外ら当時の主要作家の賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。芸術的に価値のある童謡・童話を子どもたちに提供しようという画期的な運動をスタートさせた。
三重吉はもちろん、芥川龍之介や有島武郎、北原白秋、小川未明、島崎藤村、新美南吉 等、当時活躍していた作家らが傑作を次々と発表した。
低俗な教訓性や娯楽性で成り立っていた従来のお伽噺(おとぎばなし)を、「子どもの心の特殊性に即した童話」にまで高めた作品を掲載、児童文学史に大きな足跡を残し、わが国の児童文学は新しい時代を迎えることになった。
『赤い鳥』には児童の投稿欄も設けられ、特につづり方(作文)は児童詩の教育活動に大きな影響を与えた。1936(昭和11)年、三重吉の死により『赤い鳥』は休刊するが、この精神を継承しようと、彼の13回忌に当たる1948(昭和23)年にスタートしたのが「鈴木三重吉賞」である。
毎年、全国の子どもたちから数千の作文と詩が集まり、特選と優秀作品は新聞紙上に発表される。また、三重吉の研究・資料発表を目的とする「鈴木三重吉 赤い鳥の会」も広島市を基盤に活動を続けている。
鈴木三重吉は、童話・童謡の興隆につとめ、明治時代のお伽噺を近代的児童文学に高める大きな役割を果たし、児童文学史上不滅の名を残した。
特に児童雑誌『赤い鳥』は有名執筆人による一方的な作品だけでなく、児童からの投稿欄を設けて指導した、双方向の雑誌として画期的だ。
企業においても、文書や朝礼などによる一方的な伝達だけでなく、少人数でのミーティングや面接によるコミュニケーションが信頼関係を築き、確実な伝達が行われるようになる。人間関係は何と言っても、肉声によるコミュニケーションが重要だ。
鈴木三重吉のことば
「生きたいというのは寂寥(せきりょう:ものさびしいさま)と格闘しようとする
執着でなければならない」
鈴木三重吉のビデオ
日本名作童話シリーズ7 [VHS]
日本名作童話シリーズ8 [VHS]
鈴木三重吉の本
新版 古事記物語 (角川ソフィア文庫)
桑の実 (岩波文庫)
綴方読本―綴方と人間教育 (講談社学術文庫)
鈴木三重吉への招待
永遠の童話作家 鈴木三重吉