底抜けに明るく

新美南吉

きょうは「ごんぎつね」の童話作家 新美南吉(にいみ なんきち、本名:渡辺正八)の誕生日だ。1913(大正2)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(29歳)。

愛知県知多郡半田町(現 半田市)岩滑(やなべ)に畳屋の父 渡辺多蔵・母 りゑの次男として生まれた。
本名の正八は、前年に生まれわずか18日で亡くなった長男の名前を受け継いだもので、両親が二人分生きてほしいとの願いを込めたものだった。

4歳の時、母親が逝去(享年29歳)。6歳の時に新しい母親 志んが嫁いできて、すぐ弟 益吉が生まれた。
ところが、翌年父は離婚、しかしその年に同じ人 志んと再婚した。
正八は、新しい母親とは折り合いが悪く、その寂しさを草陰のカタツムリやあぜ道のホタルなどで紛らわしていた。彼の作品に一貫して感じられる家族愛や心の優しさは、幼少のころの正八の寂しさを表現しているようだ。

正八は8歳の時に、実母の生家 新美家の養子となり、新見正八となった。しかし、寂しさから12月には新美姓のまま実家 渡辺家へ戻っている。
1926(大正15)年13歳の時、旧制愛知県半田中学校へ入学。在学中から文学に目覚め、級友たちと作品朗読会を開き、校友会誌や投書雑誌に投稿していた。

中学卒業後、1931(昭和6)年17歳の時、岡崎師範学校受験するが体格検査で不合格となった。一時、母校の愛知県知多郡半田第二小学校で代用教員を勤めながら童謡・童話の投稿を続けた。

この頃、初期の代表作となる『正坊とクロ』(1931)、『張紅倫』(1931)、『ごん狐』(1932)などの童話が鈴木三重吉に認められ、雑誌「赤い鳥」に掲載された。
その縁で北原白秋門下の与田準一や巽聖歌らが中心になっていた童謡同人誌「チチノキ」に参加することになり、多くの童謡を発表した。

18歳の時、巽を頼って上京し、東京外国語学校(今の東京外国語大学)英語部に入学した。この時期、翻訳、戯曲、小説、詩などにも手を染めた。
しかし、在学中の1934(昭和9)年20歳の時に喀血。1936(昭和11)年に卒業、就職先が見つからないまま、またも喀血して倒れ、帰郷して静養した。

1938(昭和13)年25歳の時から安城高等女学校の教諭となり、教師生活のかたわら、『久助君の話』(1939)、『屁(へ)』(1940)などの少年心理を掘りさげた作品や、後期メルヘンの『花のき村と盗人たち』(1943年)『牛をつないだ椿の木』(1943年)などを執筆した。

1941(昭和16)年28歳の時に最初の単行本『良寛物語・手毬と鉢の子』、1942(昭和17)年29歳の時に第1童話集『おぢいさんのランプ』を刊行し、新人作家として嘱望された。しかし、1943(昭和18)年3月、喉頭結核のため亡くなった。わずか29年の生涯だった。

その後、童話集「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」が相次いで刊行された。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。

底抜けに明るくユーモアと正義感にあふれた南吉の童話は、今日多くの人の心をとらえ、宮沢賢治小川未明鈴木三重吉らとならぶ児童文学の代表的作家の1人となった。

南吉は、地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から、宮沢賢治と比較されることも多く、「東の賢治・西の南吉」と呼ばれている。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、好対照をなしている。

新美南吉は、幼少の頃、親の離婚、再婚、養子などで不安定な生活状況だったが、寂しさを紛らわすために虫や草花や自然の風景に興味を持ったようだ。それが童話などの作品においては明るくおもしろく描かれている。しかし、病魔におそわれ若くして亡くなってしまう。

企業においても、入社直後の体験や勉強内容がその後の業績に大きく反映されることが多い。その頃には人間関係などに左右されず、謙虚な気持でがむしゃらに勉強することが、あとで大きな成果となってくることは間違いない。勉強しなかった人はその半生を悔いることになる。


新美南吉のDVD
  黒井健「ごんぎつね」 [DVD]
  黒井健「手ぶくろを買いに」 [DVD]
黒井健「手ぶくろを買いに」 [DVD]黒井健「ごんぎつね」 [DVD]

  

    


新美南吉の本
  ごんぎつね (岩波少年文庫)
  でんでんむしのかなしみ
  新美南吉童話大全 (スーパー文庫)
  新美南吉を授業する
  新美南吉紹介
新美南吉紹介新美南吉童話大全 (スーパー文庫)でんでんむしのかなしみごんぎつね (岩波少年文庫)