間違いだらけの本

箕作麟祥

きょうは江戸生まれの民法学者 箕作麟祥(みつくり りんしょう、幼名:貞太郎、のち貞一郎)の誕生日だ。
1846(弘化3)年生誕〜1897(明治30)年逝去(51歳)。

津山藩(現 岡山県津山市)の侍医の箕作阮甫(げんぽ)の三女 ちまの養子として迎えられた佐々木佐衛治の次男 省吾(しょうご)の子として江戸の津山藩屋敷で生まれた。

地理学者であった父 省吾は、江戸後期の蘭学者として名高かった養父の阮甫と協力して「坤與図識」(こんよずしき)を出版し、海外知識や世界情勢を人々に知らせたが、麟祥が生まれた1846(弘化3)年26歳の若さで没した。
そのため麟祥は、祖父の阮甫に育てられ、阮甫から洋学を、ジョン万次郎こと、中浜万次郎から「英学」を学んだ。1863(文久元)年16歳の時、祖父の死により嫡孫として幕臣(ばくしん:幕府の臣下)箕作家の跡を継いだ。
 中浜万次郎:1827〜1898、土佐の漁師で、14歳のとき出漁中に遭難して米船に救われ、アメリカで教育を受けた。帰国後の1853年、幕府に登用され、外交文書の翻訳、軍艦操練所教授などを務め、維新後は開成学校教授となった。

1867(慶応3)年 徳川民部大輔昭武(みんぶだいすけあきたけ:水戸家徳川斉昭の子で、将軍徳川慶喜の弟)に随行してフランスに渡り、フランス語を修得し、翌年帰国、明治政府の一等訳官に任じられた。

当時の明治政府は、徳川幕府によって調印された安政条約をはじめとする不平等条約改正の前提条件として、近代立法編纂の必要性に迫られていた。
同時に、国民の権利・義務の明確化、すなわち資本主義生産を合法化する法的規制が資本主義経済を発展させ国力を蓄積させるとして、民法の制定が明治政府にとって急務な施策の一つだった。

そこで1870(明治3)年、当時の制度取調局長官(後の司法卿)江藤新平は、同局に「民法会議」を設け、麟祥に「フランス人の民法」(「ナポレオン法典」と呼ばれる)を翻訳させ、「フランス」という文字を「日本」に読み替えて、それを日本の民法典にしようとした。

江藤が「フランス人の民法」にその範をとったのは、フランス民法が、資本制経済体制のための体系的法典であったことと、江藤個人の思想がフランス法に近かったという要因もあった。しかし、実情に適さなかったことと、江藤個人が、明治政府内の権力闘争に破れ、その職を辞職したことで、この作業は中途で挫析した。

麟祥は、江藤から「誤訳も妨げず、唯速訳せよ」と命じられていた。努力の末、「註解書も、字引も、また教師もいない」状況の中で、和装木板40冊を完成させた。
それは、後に麟祥が述懐しているように「間違いだらけの本」であった。

江藤の後任として、1873(明治6)年、大木喬任(たかとう)が司法卿に就任し、民法典編纂事業は、一応 左院(太政官内に置かれた官選議員による立法上の諮問機関)で継続審議されることになったが、江藤個人の思想が明治政府内で批判されていたことや、1874(明治7)年の佐賀の乱、台湾事件等事変の続発により明治政府が治安維持に追われ、しばらく停滞した。

本格的な民法典編纂事業が再開したのは、1876(明治9)年6月。司法省第6局長兼第4局副局長に任じられた麟祥と司法権大書記官 牟田口通照の手によって、1877(明治10)年、1878(明治11)年に民法草案が作られた。

しかしその内容は、江藤が意図したフランス民法の単なる模写にすぎず、それを批判した大木司法卿の意図を完全に裏切るものであった。そのため同案は、「わが国在来の旧慣(きゅうかん:古くからのならわし)些かも省みられず、又、立法技術的にも幼稚拙劣」として葬られた。

そこで大木は、1873(明治6)年に明治政府の招きで来日し、既に旧刑法の編纂に大きな業績を残しつつあったボアソナードを中心に、翌1879(明治12)年から新たに民法典編纂に着手することを企図した。

大木は1880(明治13)年2月、立法機関としての地位を与えられた元老院の議長に就任したが、それと同時に同年4月、元老院内に民法編纂局を設け、その総裁に自らがあたり、本格的に民法起草事業を遂行した。

大木の作業の一つの特色は、これまでの民法草案が、日本の旧来の慣習・慣行を全く無視したフランス法の模倣であったがゆえに、厳しく批判されることになったことから、それを回避すべく、民法編纂の資料として、民法の分野における慣習の調査・研究・資料収集のために第4課を設けたことである。

以来6年、ボアソナードや麟祥を中心に精力的に民法の起草が行われ、その成果が、1886(明治19)年3月、つづいて1888(明治21)年12月、民法草案として内閣に提出された。

その後麟祥は、元老院議員、司法次官、貴族院議員、行政裁判所長官、和仏法律学校校長を歴任した。また、「明六社」運動に加わって啓蒙運動にも参加した。後に和仏法律学校(現 法政大学)の校長も勤めた。
 明六社:1873(明治6)年 森有礼の発起により、西村茂樹西周加藤弘之福沢諭吉らを主要社員として設立された明治初期の啓蒙思想団体で、機関誌「明六雑誌」と公開講演によって欧米思想の紹介・普及に努めたが、1875事実上解散した。

麟祥は、法制官僚として日本の近代的法体系の整備に尽力した。死に際して男爵を授けられた。先妻 もと(三沢精確の娘)との間に3男3女を、後妻 とを(大前寛信の娘)との間に4男 俊夫をもうけた。

箕作麟祥は、優れた家系の中で誕生した優れた法学者らしく、生真面目で几帳面であったようで、非常に優れた人物として評価されていたようだ。

企業においても、指示されたことを確実に行う几帳面さは評価されるが、言われたことを100%こなすだけでは満足とは言えない。
やはり120%以上を目指し、問題点があれば指摘し、できればでしゃばらない範囲で、自分の案を提出するぐらいでありたい。


箕作麟祥の本
  仏国常用法〈第1集第1冊〉 (日本立法資料全集)〜〈第1集第3冊〉
  仏国常用法〈第2集第1冊〉 (日本立法資料全集)〜〈第2集第3冊)
  仏国民法詳説 身分証書之部 (日本立法資料全集)