失敗の一生だった

大原孫三郎

きょうは大原美術館を設立した実業家 大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)の誕生日だ。
1880(明治13)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(62歳)。

岡山県窪屋郡倉敷村(現 岡山県倉敷市)に大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉(わた:綿)問屋として財をなし、小作地800町歩(約800ha)、小作人2500余名を数える倉敷一の富豪だった。明治を迎えて地元の殖産を託した「倉敷紡績」を設立するにあたり、孝四郎は初代社長に就いていた。

大原家では二人の兄が夭折していたため孫三郎が跡継ぎだったが、遅くに生まれ身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられた。
長じて、旧藩校の閑谷黌(しずたにこう)に入ったが、勉強嫌いなうえに寄宿舎生活が肌に合わず飛び出してしまった。
1897(明治30)年17歳の時、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学するが、講義にはほとんど出ず、取り巻きに誘われるままに遊郭通いの放埒な日々を送った。田舎の大金持ちのせがれと値踏みした高利貸しがどんどん貸し込んだから、たちまち借金の元利が15,000円にのぼった。今なら億単位の金だった。

みかねた大原家は姉婿の原邦三郎を始末に派遣したが、その最中に邦三郎が倒れて急死してしまった。孫三郎は謹慎の身となり、孝四郎の実家である藤田家に預けられた。孫三郎とて遊んでばかりいたわけではない。足尾鉱毒問題で友人と現地を視察したこともある。謹慎中、その友人から届けられた二宮尊徳の『報徳記』を耽読し、「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感激した。

決定的な転機となったのは石井十次との出会いだった。岡山の医学校を中退して医師をしていた石井は、クリスチャンだった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて「岡山孤児院」を創設した。

その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動に包まれ、石井の事業を資金面から支えることにした。といっても、石井は一時は1200人もの孤児を集め、孤児たちが自立できるように宮崎県茶臼原に大農場を開いたりするような理想主義者だったから資金はいくらあっても足りなかった。

それでも「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのだった。
石井は孫三郎にも日記をつけることを勧めた。

孫三郎は「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記した。放蕩の日々と横死した義兄への贖罪の気持ちがあったのかも知れない。

1901(明治34)年21歳で、石井の娘 スエ(寿恵子)と結婚した。
この年、孫三郎は「倉敷紡績」に入社し、小学校さえ出ていない職工が多いのに驚いた。そこで「職工教育部」を設立し、「尋常小学校」を工場内に設立。また、働きながら学ぶ若者のために「倉敷商業補修学校」を設立し、地元の子弟を対象とした「大原奨学会」も始めた。

石井の勧めで地元に新しい知識を呼び込む「倉敷教育懇話会」を始めた。第一回日曜講演に招かれた山路愛山は、主催者が二十代の青年と知って仰天した。
この懇話会はすぐつぶれるだろうという見込みに反して、24年間続き実に76回を数えた。講師に、徳富蘇峰新渡戸稲造大隈重信など日本を代表する知識人が名を連ねた。

1906(明治39)年26歳で倉敷紡績の社長に就任すると、まず飯場制度を廃止した。当時は口入れ屋が従業員の手配、炊事の請負、日用雑貨の販売を仕切り、法外なピンはねを行っていた。これを会社に帰属させ、非人間的な集合寄宿舎をやめて「分散式家族的寄宿舎」を建設した。

倉敷紡績は地元資本の集合であり、こうした諸施策は株主の反発を招いた。しかし、孫三郎は「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切った。

孫三郎は経営者としても果断な施策で倉敷紡績を全国規模の会社に成長させた。大学や高専出身者を次々に採用し、前垂れの番頭中心の古い経営を一掃した。

明治末期の日露戦争後の不況では、大型合併による紡績業界の再編が進み、地方会社にすぎない倉敷紡績は飲み込まれてしまう危機に直面した。これに対して孫三郎は吉備紡績の買収に乗り出した。重役や株主が反対するのを意に介さず、「事業に冒険はつきもの、わしの眼は十年先が見える」として、その後も次々と工場を拡張していった。自前の発電所もつくり、いち早く蒸気動力から転換した。

孫三郎の読み通り、大正に入ると、第一次大戦の勃発により日本は空前の好況を迎えた。倉敷紡績は先行投資が功を奏し、実に6割配当を実現した。
四国にも合併・新設で工場拠点を築き、遂に業界大手にのしあがった。

さらに、県下の銀行を統合した中国合同銀行(現 中国銀行)の頭取となり、電力事業の統合を図って中国水力電気会社(現 中国電力)も設立した。
こうして孫三郎は、中国・四国きっての実業家といわれるまでになった。新事業にも積極的で、1926(大正15)年46歳の時、人絹事業の将来性を見抜いて倉敷絹織(現 クラレ)を設立した。

孫三郎には大原家当主としての顔もあった。大原家の財政は地主としての収入が主であった。謹慎のおり、孝四郎は孫三郎に小作地の管理を命じたことがあった。小作地を見た孫三郎は、その窮状に接し強く思った。「地主と小作人は同胞的関係にならないと平和を保つことはできない。そのうえで生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない」

そして、米の品種改良から始めた。小作人の子弟教育も考えた。「大原奨農会」をつくり農業改良資金を貸し出した。ところが、小作地を買い取って自作農になりたいものに融資すると発表するに及んで、近隣の地主から「大原は紡績で稼ぐからいいが、我々には死活問題だ」と猛反発をくらった。

そこで別の形を考え、1914(大正3)年34歳の時、「大原奨農会農業研究所」(現 岡山大学農業生物研究所)を設立し、運営のために200町歩を拠出した。この研究所で岡山名産となるマスカットや白桃が開発された。

1918(大正7)年の米騒動が岡山に飛び火したとき、孫三郎は米廉売資金を町に寄付して倉敷での米価高騰を防いだ。
経営者となっても、「天職のために財産を遣い尽くす」姿勢は変わらなかった。

1919(大正8)年39歳の時、「大原社会問題研究所」を発足させた。小学校の同級に日本共産党設立に参加した山川均がいたことも影響したはずだが、石井十次が大正3年に没したことで救貧運動の限界を悟り、貧困の原因をなくすことが先決だと考えるようになっていた。

孫三郎は、所長になってもらうべく共産党河上肇を訪ねた。河上は「私のようなところに資本家のあなたが来てはいけない」とあきれつつも高野岩三郎を紹介してくれた。ここでも「金は出すが口は出さない」主義で通した。この研究所はやがてマルクス経済学の中心となり、大内兵衛、森戸辰男などを輩出した。戦後は「法政大学大原社会問題研究所」となった。

1921(大正10)年41歳の時、「倉敷労働科学研究所」をつくり、工場内の労働環境を改善すべく、工場内の温湿度管理やカロリー計算に基づく給食などを実施した。1923(大正12)年には、従業員のために「倉紡中央病院」(現 倉敷中央病院)を設立、一般市民にも広く開放した。

病人は社長も工員も平等であるという考えで小児以外は個室をつくらず、見舞品ももらえない人があるという理由で持込禁止とした。入口に大きな温室を設けて病人が憩える環境をつくり、白い壁は圧迫感があると淡いピンクで塗った。

昭和に入ると、未曾有の危機が訪れた。1927(昭和2)年に始まった金融恐慌は、世界大恐慌に連動して暗黒の大不況がやってきた。倉敷紡績も輸出不振が響き、創業初の欠損を計上した。役員報酬の減額、倉紡中央病院の独立などの合理化を図ったが、状況は悪化するばかりで、人員整理で労働争議も起こった。

こうなると「研究所道楽」への批判が一挙に吹き出した。大原家が運営する大原農業研究所はともかく、治安維持法で逮捕者も出した大原社会問題研究所への風当たりが強くなった。
しかし、孫三郎はどうしても存続させたかった。「片方の足に靴を履き、一方の足に下駄を履くのは難しい」と嘆きつつ、どちらも脱がずによたよたと歩き続けた。

1930(昭和5)年50歳の時には最愛の妻 寿恵子にも先立たれた。そして、1932(昭和7)年、ようやく為替が円安に転じて長い不況のトンネルを脱し、倉敷紡績も息を吹き返した。人絹ブームの到来で倉敷絹織は順調に発展した。

同年、「大原美術館」が建設された。わが国初の西洋美術館であった。そのコレクションは、大原奨学会の支援で東京美術学校(現 東京芸術大学)に学んだ児島虎次郎が蒐集した西洋絵画がもとになっている。
大原美術館は、孫三郎が「私の一番の最高傑作」といってはばからなかった總一郎に受け継がれ、今日の隆盛につながっている。

再び、孫三郎の拡張主義が始まった。1935(昭和10)年55歳の時、「倉敷毛織」を設立した。
孫三郎は長男の總一郎に自分の経営哲学を説いた。
「十人の人間のうち、五人が賛成するようなことは大抵手遅れだ。七、八人がいいといったらもうやめた方がいい。二、三人位がいいということをやるべきだ」

孫三郎は1939(昭和14)年59歳で總一郎に一切をゆずった。晩年は、素朴な民芸を愛し、1943(昭和18)年に大原邸で亡くなった。

彼は死の日、一人息子 總一郎を枕元に呼び寄せ、「昨夜は不思議な夢を見た。まさかと思うような人までが、自分の病気が全快するように祈ってくれていた。そういう人までが自分のために祈ってくれていると思うと、ありがたくて、ありがたくて」と涙をこぼした。その日の午後、62歳の生涯を静かに閉じた。

孫三郎は、これほどの事業を成し遂げたというのに、「自分の一生は失敗の一生だった」と總一郎に語った。
企業家が負うべき社会的責任を広く世に知らしめたという意味で、その功績はあまりに大きく、今も称賛の的となっている。

大原孫三郎は、若年の時代には金目当ての取り巻き連中にそそのかされ、これといった方向も見出せぬまま流されている。ところが石井という友人を得てからは自分の考え方に自信を持ち大きな事業を成し遂げている。キリスト教に出会ったことも大きいようだ。

企業においても、人生においても、真の友人を持つかどうかで一生が大きく違ってくる。早い時期に巡り会えるに越したことは無いが、それこそ一生をかけてでも巡り会うようにしたいものだ。


大原孫三郎の本
  わしの眼は十年先が見える: 大原孫三郎の生涯 (新潮文庫)
  福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎
  大原孫三郎の経営展開と社会貢献 (学術叢書)
大原孫三郎の経営展開と社会貢献 (学術叢書)福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎わしの眼は十年先が見える: 大原孫三郎の生涯 (新潮文庫)