全力量を投入した

戸坂潤

きょうは日本の代表的な唯物論哲学者 戸坂潤(とさか じゅん)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(45歳)。

東京神田に生まれる。父は潤が生まれた年の1月に病気で亡くなっていたので、彼は生まれながらにして父を知らない。また、母 久仁子も病身のため、潤は母方の実家 石川県羽咋郡の祖父母に預けられた。
潤は雪が多く季節風の強い 保守王国 能登に育った。

幼年期を母と別れて過ごした潤は、5歳の1905年(明治38)年9月、母に引き取られて上京した。開成中学卒業後、第一高等学校を経て、1921(大正10)年21歳のとき京都帝大文学部哲学科に入学。卒業後、1924(大正13)年同大学院へすすんだ。1925(大正14)年 三木清が帰国し、いわゆる"哲学一高会"がもたれるようになった。
徴兵で陸軍重砲隊へ入隊。1926(大正15)年26歳の時 京都工芸学校、同志社女子専門学校の講師となり、「範疇としての空間について」等「空間論」を多く執筆した。1929(昭和4)年頃からマルクス主義研究を始めた。

1930(昭和5)年30歳のとき共産党員を自宅に泊めたために梯明秀(かけはし あきひで)と共に検挙されるが、戸坂自身は一週間で釈放された。1931(昭和6)年31歳の時、辞職した三木清の後をうけて法政大学講師となり上京した。

1932(昭和7)年32歳の時、岡邦雄、三枝博音らと「唯物論研究会」を設立、事務局長になり、『唯物論研究』創刊号を発刊した。

唯物論研究会」は、「唯物論の研究に重大な意義をみとめる研究家の研究団体」として発足。会員には当初自然科学者が多く、初めは哲学・自然科学が中心で、政治的色彩のない大衆団体として活動していたが、しだいに社会科学・芸術論・文化問題に拡がり、マルクス主義の哲学的理論的研究とその普及化をおこなう唯物論者の研究団体の役割を演じる様になった。

彼は、唯物論研究会のリーダーとして、軍国主義に抵抗し、科学的精神を擁護、普及する運動に取り組んだ。
『経済往来』に「京都学派の哲学」を発表。以後批評論文を精力的に執筆した。1933(昭和8)年「『無の論理』は論理であるか」を発表した。

1935(昭和10)年35歳の時、思想不穏のかどで再び検挙され、法政大学を免職になった。その後は唯研活動に全力量を投入した。唯研から『唯物論全書』(三笠書房)の刊行を開始、編集に奔走した。『科学論』『日本イデオロギー論』刊行。1936(昭和11)年『現代唯物論講話』刊行した。

1937(昭和12)年37歳のとき大森義太郎、岡邦雄、向坂逸郎中野重治らと共に執筆禁止になった。1938(昭和13)年 弾圧の熾烈化の中で、唯研を解散した。『唯物論研究』を『学芸』と改題して刊行するも、発行禁止になった。

同年11月29日、治安維持法により、いわゆる「唯研事件」で岡、永田広志、古在由重らと共に検挙された。1940(昭和15)年12月 保釈され出所した。

1944(昭和19)年9月 日本敗北の時期にほぼ見通しをつけてから東京拘置所へ下獄(げごく:牢に入って刑に服すること)した。大審院による懲役3年の最終判決を受けた。

1945(昭和20)年5月 空襲のため長野刑務所へ移送された。7月栄養失調と疥癬(かいせん:疥癬虫の寄生によって起こる伝染性の皮膚病)のため急性腎臓炎を発病。8月9日、第2次世界大戦終戦を目前にしながら獄死した。

戸坂潤は、急進的唯物論者として時の権力に反抗し逮捕を繰り返しながらも自分の信念を貫こうとした。それは理想論ではあるが世の中の大きな流れにはそぐわず、結局 獄中で亡くなってしまう。しかし彼の行動は大きな牽制となり世論を冷やす効果はあったはずだ。

企業においても、決定案に反対の考え方の場合は、いつまでも邪魔したりふてくされたりするのは恥ずべき行為だ。冷静に見守り、違う見方を提示する形で協力するという方法もある。

★戸坂の理論★
戸坂は「京都学派」という呼称を最初に与えた人物として知られ、「『無の論理』は論理であるか」等の西田幾太郎への批判論文もある。
しかしながら西田、田辺元らの観念論哲学者からの戸坂の評価は高かったとされ、西谷啓治との親交も篤い。とりわけ田辺との関係はごく近しいものであったようで、田辺が弁証法研究へ向かうきっかけをつくったのも戸坂、三木らとの対話であった。

戸坂の仕事は、「時局に対応した批評論文」と、主に啓蒙的な意図から執筆された「唯物論の原理的な解明にかかわる論文」とに分けることができる。しかし両者は密接に結びついており、むしろ彼の仕事の最終的な目的は時局への批評、イデオロギー批判にあった。

戸坂の思想にとって常識ないし日常性の原理に根ざしていることは重要な要素の一つとなっている。常識を単なる知識量の総和やその平均値ではなく、或る質的な水準と考える。かくして常識的ということは、平均値を高めるべき標準ないし理想と理解される。
このような常識に立脚するということが、日常性の原理に立つことであり、特に時局に対する実際性を有するということであって、唯物論はこうした立場に立たねばならないと言う。

戸坂にとって哲学は科学の方法としての論理であり範疇の体系なのであるが、こうした規定にはもちろん様々な哲学的問題が孕まれている。しかし、それは戸坂が哲学を方法として実際に活用し、現にある時局に於いて生かそうと考えたことの現われでもある。

★唯物論★
精神の実在を否定して、物質の根源性、独自性のみを主張する哲学の理論、または立場。
宇宙の本質は物質であり、物質とは別物の霊魂・精神などは実在せず、意識は高度に組織された物質である脳髄の所産であり、認識は客観的実在である脳髄による反映であるとする説。 



戸坂潤のことば
  「科学は合理的なものだ。それは公式であり、システムである。
    味の素のようにホーレン草にも沢庵にも利く」
  「修身道徳のことをモラルというのは、宿屋のことをホテルというようなものだ」
  「今、みづから絶望することなどを覚え込んだ学生は、
    どの途、はじめから絶望すべき学生にきまっている」  


戸坂潤の本思想と風俗 (東洋文庫)
  日本イデオロギー論 (岩波文庫 青 142-1)
  思想と風俗 (東洋文庫)
  科学論
  戸坂潤とその時代
  戸坂潤の哲学 (こぶし文庫)