時代を駆け抜けていった

ガーシュイン

きょうはアメリカの作曲家でピアニスト ジョージ・ガーシュインGeorge Gershwin、本名:Jacob Gershwits)の誕生日だ。1898(明治31)年生誕〜1937(昭和12)年逝去(38歳)。

アメリカ ニューヨークのブルックリンに貧しい仕立職人の息子として生まれた。ユダヤ系のロシア人で、父親のモイシェ・ガーシュヴィッツはロシアからユダヤ人への迫害を逃れて1890年にアメリカへ移民して来た。彼の父親は靴の装飾デザイナーが本職で、音楽との関わりはまったく無かった。

ガーシュインは毎日子供らしく走りまわって遊んでいたが、6歳の時に偶然耳にしたアントン・ルービンシュタインの「ヘ調のメロディー」に大変感銘をうけた。それからは、ピアノを持っている友達の家に行っては、独学でピアノを弾き、作曲さえもするようになった。
12歳の時、兄のために購入したピアノを弾いたジョージの才能に家族は驚いた。まさか、ジョージがピアノを弾けるとは、誰も思っていなかった。彼ほど音楽教育との出会いが遅かったクラシック音楽の作曲家は他にいないかもしれない。それまでの彼は単なる街の不良少年だった。

音楽の才能に恵まれたガーシュインだったが、勉強はあまり好きではなかった。ユダヤ人街の不良少年として、仲間たちと遊び回っていたガーシュインは街中に流れていた当時の人気ナンバー1ポップス「ラグタイム」を聞きながら育った。実際、当時はあらゆる曲がラグタイムに編曲されて演奏されていた。

その後、彼はクラシックの理論や和声学を学ぶが、この頃聞いた音楽が後に「ラプソディー・イン・ブルー」を生むうえで大きな意味を持つことになった。さらに、クラシック音楽の作曲家としての教育期間が短かったぶん、彼にはジャズやラグタイムをクラシックに取り込むための「心の自由度」が残されていた。

逆に音楽教育を受けるのが遅れた分、彼には編曲の能力が不足していたとも言われている。そのため、彼は自分自身のオリジナルのイメージに基づく「ラプソディー・イン・ブルー」を楽譜として残すことができなかったのではないかとも言われている。

そして、元々は小編成のジャズ・バンド用に作られたはずの曲がクラシック音楽の名曲と呼ばれるようになり、後に別の作曲家が編曲したオーケストラ版だけが広まることになった。

ラグタイム」とは、一般的にアフリカから持ち込まれた音楽をクラシックの様式によって楽譜化したもので、独特のシンコペーションを持つピアノ・サウンドに代表される音楽をいう。

1899年に黒人のピアニスト、スコット・ジョップリンが「メープル・リーフ・ラグ」を大ヒットさせて一躍有名になり、その後1911年に白人の作曲家アーヴィング・バーリンが「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」を大ヒットさせたことで、一気にアメリカのポピュラー音楽における主流になった。

基本的には、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の融合ということになるが、そこに奴隷生活から生まれた悲しみの感情「ブルース・フィーリング」やアフリカ音楽独特のアドリブ・パートが加わることで、いよいよジャズやブルースなど現在につながる黒人音楽が生まれることになる。

この当時、レコードは普及してなかったので、音楽はピアノなどの楽器を用いて生で演奏するものだった。そのため、音楽産業とは楽譜販売業のことだった。したがって、楽譜を販売する企業は、売りたい曲のプロモーションのために常時演奏者(ピアニスト)を必要としていた。

そんな楽譜商が軒を並べていたのが、ニューヨークの有名な通り「ティン・パン・アリー」だった。「ティン・パン」は、ピアニストたちが一日中ピアノの鍵盤を「ティン!パン!」と叩いていたところから名付けられた。

15歳で高校を中退したガーシュインは、その通りにある企業の中でも大手に属する「レミック社」のオーディションを受けたところ、見事に合格した。さっそくソング・プラッカーとしての仕事を始めた彼は、売れ筋ナンバー1のラグタイムのテクニックを磨くため、優秀な黒人ラグタイム・ピアニストが出演する店を巡り歩いた。

ソング・プラッカーというのは、一日中楽譜売り場にいて、お客さんが選んだ楽譜にのっている曲を、実際にピアノで弾いて見せるデモンストレーション・ピアニストで、それは仕事とはいえ、彼にとっては至福の時でもあった。そうして彼はどんどんそのテクニックを盗み取り、白人としては文句無しのナンバー1ピアニストにのし上がっていった。

レミック社の看板ピアニストになった彼は、その知名度を利用し作曲家として活躍し始めた。こうして発表された曲の中には、彼の兄アイラが作詞を担当し、彼が作曲した最初のミュージカル「レディーズ・ファースト」(1918年)があり、その中には「本当のアメリカのフォーク・ソングはラグ・タイムだ」というタイトルのラグタイム・ナンバーも収められている。

1919年、ジョージが21歳の時「スワニー」という曲が大ヒットした。このレコードの売り上げは実に225万枚で、世界中にガーシュインの名前を広めた。ガーシュインがロンドンに旅行し、ホテルにチェックインしようとした時に、「あなたがあの『スワニー』を作曲した人ですね」と、フロントで声をかけられるほどの人気ぶりだった。

しかし、一世を風靡したラグタイムも「ラグタイムの王様」スコット・ジョップリンが亡くなったあたりから、少しずつ人気に陰りが見え始めた。そして、逆に人気が高まり始めたのが、ニューオーリンズ生まれのデキシー・ランド・ジャズだった。

クラシックの楽団でバイオリンを弾いていたポール・ホワイトマンは、シカゴでデキシーランド・ジャズと出会い、その魅力にいち早く気づいた。彼はニューオーリンズから少しずつ北上していたデキシーランド・ジャズをいち早くニューヨークに持ち込み、自らが作った楽団で演奏し大ヒットさせた。

彼はその新しい音楽を白人向けにわかりやすく整理し、オーケストラによるダンス音楽として広めることに成功した。彼はこうして自らを「ジャズ王」と称し、彼のヒットさせたオーケストラによる音楽が後のビッグ・バンド・ジャズの元となり、スウィング・ジャズへと発展していくことになった。

そんな「ジャズ王」ポール・ホワイトマンが、先見の明でジョージの才能に目を付け、彼に大きなチャンスを与えた。
彼は自ら「アメリカ音楽とは何か?」という実験的コンサートを企画、その中でジョージ・ガーシュインによるジャズ・コンチェルトの新曲を演奏すると発表した。

ところが、この企画が真似されることを怖れたホワイトマンは、新聞発表当日までそのことを秘密にしていた。そのため、ガーシュインですら、そのコンサートに自分の名前があることを知らなかった。なんと、歴史的名曲「ラプソディー・イン・ブルー」は、作者が知らないうちに、その発表が計画されていた。

1924年2月12日リンカーン大統領の生誕記念日、エオリアン・ホールにおいてポール・ホワイトマンが指揮するパレ・ロワイヤル・オーケストラが「アメリカ音楽とは何か?」というタイトルのもと、新しい作曲家たちの作品を次々と演奏していった。

客席を見たガーシュインは驚いた。ストラヴィンスキーラフマニノフクライスラーハイフェッツストコフスキー…。当時のアメリカ楽壇の重鎮たちがほとんど顔を揃えていた。人々は新しい時代のアメリカ音楽の誕生を期待して集まっていたが、目新しいものが少なく、しだいに観客たちはコンサートに飽きていた。

そんなコンサートも終わりにさしかかったころ、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」が登場。いっきにその場の空気を変えてしまった。曲が終わると客席は総立ちとなり、この新しい音楽に止むことのない拍手を送った。
クラシック作曲家、ジョージ・ガーシュインが誕生した瞬間だった。

それはクラシックとラグタイムを単純に合わせただけの音楽ではなかった。そこにはブルースやジャズのもつ「ブルー」な雰囲気とユダヤの人々が愛する独自の音楽、クレツマーの要素も加えられ、人種のるつぼニューヨークを象徴するかのような音楽に仕上げられていた。

さらにこの曲が優れているのは、どこを切っても楽しめる織物(タペストリー)として作られていることだ。そのため、この曲は何度聞いても飽きないし、どこから聞いても楽しめるスタンダード・ナンバーに成り得た。そして、そんなこの曲のもつ構造こそ、アメリカという国の構造そのものだった。

遅いスタートだったとは言え、「ラプソディー・イン・ブルー」を作曲した時、彼はまだ24歳の若者だった。元々街の不良少年だった彼は、けっして品行方正な人物ではなく、生涯未婚のまま酒と女にお金を使うのが楽しみという当時流行の「ジャズ・エイジ」的人物の典型だった。

しかし、そんな人物だったからこそ彼には怖いものもなく、新しい音楽に挑戦することができた。彼以外にも、ドボルザークドビュッシー、ストラビンスキー、エリック・サティーなどの作曲家たちが、アメリカの黒人音楽を元にした曲を作っているが、彼らは黒人音楽を「聴いた」だけであり、「体験」していなかったため、クラシックの枠を越えることはできなかった。

1935年37歳の時、彼はさらに奥深い黒人音楽の世界に挑戦した。それがデュボース・ヘイワードによって書かれた「ポーギーとベス」のオペラ化だった。この作品は、1970年代になるまで黒人キャストによる本格的な公演が行われなかったにも関わらず、そこからは数多くのスタンダード・ナンバーが生まれた。

このオペラを作る際、彼はその作品の舞台になった土地、チャールストン近郊にあるフォーリー島を訪ねている。その時、彼はすぐにその島に住む黒人たちの間にとけ込み、彼らのダンスの輪に加わって人気者になった。やはり彼は単なる黒人音楽オタクではなかった。

その後、彼はハリウッドに居を移し、映画音楽の仕事をするようになるが、その分野で大きな結果を残すことはできなかった。残念なことに、彼はその後すぐ脳腫瘍でこの世を去ってしまった。まだ38歳の若さだった。こうして、アメリカにおけるクロスオーバー・ミュージックの原点は、あっという間に時代を駆け抜けていった

若くして彼がこの世を去ったことで、その名はいつしか伝説と化した。その存在はある意味ジミ・ヘンやジャニス、ジョン・レノンボブ・マーリーらに通じるものとなった。しかし、彼の場合、アメリカのクラシック音楽を代表する輝ける星となったがために、街の酒場で演奏されるラグタイムの作曲家であったことは、すっかり忘れられてしまった。

ジョージ・ガーシュインは、20世紀のアメリカ音楽を作ったといわれる。「パリのアメリカ人」のような管弦楽曲から、『ポーギーとベス』などのオペラまで、そのどれもが彼の個性と才能が存分に感じられる素晴らしいものばかりだ。今や大衆音楽としての人気をすっかり失ってしまったクラシック音楽にとって、ガーシュインは最後のアイドルだったのかもしれない。

企業においても、学歴や経歴に関係なくすばらしいアイデアを出す人がいる。まさに天才的な発想の持ち主だが、既成概念に捕われることなく自由に発想できる状況にあれば、どんな人でもすばらしい発想が出易くなるものだ。自分の気持ちをそのような状況に置くことができる人が発想豊かな人ということだ。


ガーシュイン最期のことば
  「頭の中で何かが焼ける音がしてから、自由が利かなくなった」


ガーシュインの作品
  ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー,グローフェ:グランド・キャニオン
  ガーシュウィン:ヘ調のピアノ協奏曲
  ガーシュウィン:パリのアメリカ人 他

ガーシュウィン:パリのアメリカ人 他ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー,グローフェ:グランド・キャニオン


  
  
  
ガーシュインの本
  ガーシュイン・ギター六重奏のためのパリのアメリカ人
  ラプソディ・イン・ブルー-ガーシュインとジャズ精神の行方 (セリ・オーブ)
  ジョージガーシュウィン 1 ジャズピアノ 1 (Great composers series)、2
  JM139 アルトサックスで吹くガーシュイン 第1集
  ピアノソロ ガーシュインインジャズ
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