逆境に耐えて光明を求め
きょうは「路傍の石」の小説家 山本有三(やまもと ゆうぞう、本名:勇造)の誕生日だ。1887(明治20)年生誕〜1974(昭和49)年逝去(86歳)。
栃木県下都賀郡栃木町(現 栃木市)に呉服商の子として生まれる。生家は貧しく、栃木高等小学校を8年間首席で卒業するが、15歳で東京浅草の呉服商に奉公に出された。しかし、辛さのあまり 翌年 生家に逃げ帰った。家業を手伝いながらも学問への願いを断ち難く、1905(明治38)年 許しを得て上京し、苦学しながら19歳で東京中学に編入した。
翌年、岡山の第六高等学校に合格し、父親とも喜んだが、この2か月後父が亡くなってしまった。そのため、入学を断念し、栃木に戻った。実家の呉服業をしながら勉学をつづけた。
そして、第一高等学校に入学。一高時代の同期に近衛文麿、土屋文明、芥川龍之介、菊地寛らがいる。その後、東京帝国大学独文科へ入学した。在学中に第三次『新思潮』の同人となった。
卒業後は劇作家として出発し、1920(大正9)年33歳の時、戯曲「生命の冠」でデビューし、「坂崎出羽守」「女人哀詞」などで脚光を浴びた。
1926(大正15)年に現在の武蔵野市吉祥寺に移転したころから小説も手がけ始め、「生きとし生けるもの」「波」で名声を得た。その後も「女の一生」「真実一路」などの名作を生んだ。
1936(昭和11)年49歳からの三鷹時代には、「路傍の石」「新編路傍の石」「戦争とふたりの婦人」、戯曲「米百俵」などの作品がある。
逆境に耐えて光明を求め成長する人間をよく描いた。
「路傍の石」に描かれた主人公 吾一少年は、志を持って生きていった有三の少年時代が映し出されているといわれる。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほうとうに生かさなかったら、人間は生まれてきたかいがないじゃないか」
この頃住んだ玉川上水沿いの邸が、現在は「三鷹市山本有三記念館」となっている。記念館の門の前には黒い大きな石が置かれ、これは有三が散歩の途中で見つけ、自分の邸の裏庭に持って来たということで、現在それが『路傍の石』の石と呼ばれている。
有三の作品は人道主義・理想主義の観点から社会を捕らえ、いかに生きるべきかを追求している。1942(昭和17)年 、55歳の誕生日を期して、邸内に「ミタカ少国民文庫」を設け、近所の子供たちに蔵書を公開した。子供たちに本をできるだけ読んでもらいたいと思ったようだ。
戦後は、日本国憲法の口語化や当用漢字の制定に携わり、1947(昭和22)年から1953(昭和28)年には参議院議員を務めた。議員として国民の祝日の制定、「国立国語研究所」の設立、満年齢の採用、文化財保護法など文化政策の推進に大きな功績を残した。
少年少女雑誌の編集や国語教科書の刊行など、青少年の教育にも情熱を注いだ。1965(昭和40)年 文化勲章受賞。
栃木市には「山本有三ふるさと記念館」がある。
山本有三は、生家が貧しいながらも努力して文学の道を選び成功している。それは自分がそうなりたいと願っていることを文章にしたものかもしれない。そして参議院議員になってからも文化事業の充実に活躍している。
企業において、目標を設定する場合、このようにあるべきだとする理想像を思い描くことによって、現状との差をどのように埋めるかが明確になってくる。これを実行することによって、あるべき姿に少しずつ近づくことになる。
山本有三のことば
「人間はな。
人生という砥石で、ごしごしこすられなくちゃ、光るようにならないんだ」
「女が母おやになるのはなんでもないことです。
そんなことはどんな女にだってできることです。
でも母おやであることはなかなかできることではありません」
山本有三のビデオ
路傍の石 [VHS]
米百俵?小林虎三郎の天命? [VHS]
山本有三の本
路傍の石 (新潮文庫)
真実一路 (新潮文庫)
米百俵 (新潮文庫)
波 (岩波文庫)
山本有三 (新潮日本文学アルバム)