とどまるところを知らず

野口遵

きょうは日窒コンチェルンを築いた実業家 野口遵(のぐち したがう)の誕生日だ。
1873(明治6)年生誕〜1944(昭和19)年逝去(71歳)。

石川県金沢市に旧加賀藩士 野口之布の長男として生まれた。貧しい士族の家だったが、小学校から東京で学んだ。
東京師範学校付属小学校、東京府立中学校、共立学舎編入、第一高等中学校、そして1896(明治29)年 東京帝国大学電気工学科を卒業した。

野口は家が貧しく、有力な親戚縁者もなく、仕事の道は自分一人で切り開かねばならなかった。大学を卒業し、シーメンスに入ったのちも、より高い給料を求めて職を転々とした。しかし、決して諦めない精神の持ち主だった。
在学時より、国家の産業基盤を支えるものとして、水力発電に高い関心をもっていた。東京電灯会社(現在の東京電力)の依頼で渡米した後、1902(明治35)年29歳の時 藤山常一と仙台でカーバイド製造事業に着手した。

1906(明治39)年33歳の時、鹿児島県に曽木発電所を建設し「曽木電気株式会社」を設立した。曽木発電所は、大口市の牛尾鉱山の排水用動力を確保するために建設されたものだったが、牛尾鉱山の電力使用量が予想より少なく、800kwの電力が余り、経営も思わしくなかった。

そこで、翌年 熊本県葦北(あしきた)郡水俣村(現水俣市)に「日本カーバイド商会」を設立し、曽木電気の余剰電力でカーバイド(漁船や自転車の点灯燃料)の製造を始めた。1908(明治41)年35歳の時、曽木電気と合併、「日本窒素肥料株式会社」を発足させた。ドイツからカーバイドを原料とした石灰窒素肥料製造技術を導入、カーバイドから石灰窒素、硫安にいたる一貫生産を開始した。

その後、新潟や熊本での水力発電所の建設、大阪や熊本県鏡町での工場施設などにより、一応の事業基盤を確立した。1921(大正10)年48歳の時、野口は欧州視察に赴き、イタリアのカザレー博士のアンモニア合成法の特許を獲得した。

カザレー法の新技術を用いた生産工場は当初熊本県の予定だったが地元の反対により断念した。そこで宮崎県の愛宕山の東にあたる恒富村(現 延岡市恒富)の湿地帯に目をつけた。この工場立地については日窒側の熱意もさることながら、地元の日吉幾治村長や村会議員が積極的に誘致し、用地買収に当たっては当初恒富村が支払うという熱の入れようだった。

こうした双方の熱意にあわせ、延岡市に豊富な水と電力があることから、アンモニアと硫安の事業化を図ることを決定した。1923(大正12)年、カザレー博士の出席のもと日本窒素肥料株式会社延岡工場が操業を開始した。
これが「旭化成」の発祥となった。

野口の事業意欲はとどまるところを知らず、1927(昭和2)年54歳の時、朝鮮大陸に進出、鴨緑江などで百数十万kwにおよぶ発電を行い、興南を中心とした肥料50万トン規模の一大コンビナートを建設した。さらに、日本軍の進出とともに満州海南島にまで進出した。

多方面の分野に進出した日窒は、自社の関連部門を子会社として独立させ、1930(昭和5)年以後は、持株会社の性格が強くなり、「日窒コンツェルン」を形成。日産、理研などとともに「昭和の新興財閥」といわれるようになった。

日窒コンツェルンは、日本初の硫安・合成アンモニアの生産に成功した「日本窒素肥料」を中心に最盛期には26社もの企業をもち、日本・朝鮮に電気化学工業の企業集団をつくった。野口は、その功績から「電気化学工業の父」あるいは「近代化学の父」「朝鮮半島の事業王」と呼ばれた。

しかしながら、永年の苦労がたたったのか、満州海南島などで活躍中の1940(昭和15)年、ついに病に倒れた。1941(昭和16)年には私財を投じて「野口研究所」と「朝鮮奨学会」を設立している。そして1944(昭和19)年1月15日、療養中の静岡県韮山において亡くなった。享年71歳。

戦後、日窒は財閥解体の中で、持株会社整理の対象企業となり、1949(昭和24)年 解散した。水俣工場が「新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)」に、延岡工場が「旭化成工業株式会社」に、プラスチック事業が「積水産業株式会社(現在の積水化学工業株式会社)」に経営継承された。

日窒の創始者 野口遵が亡くなる数年前頃から「水俣病」の原因とされるメチル水銀が工場から流出されていたようだ。そして、日窒が解散した数年後に、水俣病第1号患者が発病している。
わが国の近代化学工業の基礎を築いた、日本化学工業界のトップランナーにとって、水俣病という大きな公害を引き起こしたは非常に残念なことだ。

野口遵は、生まれた家が貧しく、若い頃から勉学を事業と結び付けて考えていたようだ。常に前向きで大きな目標を持ち、諦めない気持ちがあった。それが一大コンチェルンの構築につながるのだが、巨大になった後はさびしさもあったようだ。

企業においても、目標を持つことは達成感ややりがいを得るためにも必要なことだが、年間目標などとは別に、定年までの目標とか生涯の目標など長期目標を持つことで行動の迷いがなくなるのではないか。


野口遵の本
  起業の人 野口遵伝―電力・化学工業のパイオニア