消費者側の利益を主として

藤原銀次郎

きょうは王子製紙の中興の祖 藤原銀次郎(ふじわら ぎんじろう)の誕生日だ。
1869(明治2)年生誕〜1960(昭和35)年逝去(90歳)。

信州安茂里村(現 長野県長野市)の村一番の豪農に生まれた。漢学を修め、元々医者を目指して上京したが、郷里の先輩 鈴木梅四郎の勧めで慶應義塾に入学・卒業したあと、国会創設時の1890(明治23)年21歳で言論界(マスコミ)に入り、島根県「松江日報」に入社、その主筆を務めた。

後にこの新聞社は経営不振となり、銀次郎は一切の借金をかぶることになった。
「子供のころから、生活の苦しみを知らず、ゼイタクさえしなければ、食ってゆけるものだと思っていた。それが実際にあたってみると、金が無ければ何もできないことがしみじみわかった。今でもそのときの苦労が身にしみわたっている」
その後、鈴木の紹介にあわせ渋沢栄一井上馨ら三井の重鎮から請われて、三井銀行に入社した。銀次郎は独創性と行動力による改革実績を評価され、当時対立していた三井物産へ異動し木材部長となり、小樽支店長を務めたのが北海道との関わり始めだった。ここでも銀次郎は不振を挽回し、業績を向上したので、「藤原銀次郎は手腕家だ」と高く評価されるようになった。

そして1911(明治44)年42歳の時、三井財閥の首脳だった井上らから直々に、どうにも動きの取れなくなっていた "聞きしにまさるボロ会社"「王子製紙」に、難局打開と経営の建て直しを託され、専務取締役として乗り込んだ。

そのころの王子製紙は、経営不振と経営陣の確執、それらに対する労働者の不満が爆発して大ストライキに揺らぎ、容易に改革のできる状態ではなかった。
会社再建策として、第一に考えるのは冗費の削減、物件費の節減だが、それらはすでに実行済みだった。

そこで銀次郎は「根本から改革しなければならぬ」と決意、取り組んだのは「人材の中から玉を発掘する」ことだった。
「事業に最も大切なのは人である。人を見いだすこと、これが経営改革の第一歩の急務である」と語り、石と玉を見分けるためにかなりきびしい人物試験をした。そして、これと見込んだ社員は、学歴に関係なく重用した。

同様に工場現場についても行った。地理的条件、機械設備の状況、能率性などを精査して、効率の悪い工場は廃止か縮小、条件のよい工場には全力を集中させる策を断行した。このとき、苫小牧工場に「集中大量生産方式」を採用して大成功を収め、経営再建はもとより、のちの大王子製紙に躍進する盤石の基礎を固めた。

いったん王子製紙を去るが、再び請われて、1920(大正9)年51歳の時、社長として復帰。敏腕をふるい、これを日本一の製紙会社にすることに成功した。銀次郎は「日本の製紙王」と呼ばれ、製紙業界に大きな足跡を残した。

さらに王子製紙樺太工業、富士製紙という新興勢力(両社とも「製紙界の天才」「製紙技術の神様」とうたわれた大川平三郎が社長だった)と激烈な争いを展開するが、ついにこの二社を吸収合併し、シェア90%となり、名実共に日本一の製紙会社を誕生させた。銀次郎、65歳のことだった。

ちなみに銀次郎・平三郎という製紙界の二大傑物は、「平三郎の大胆不敵に対し、銀次郎の細心周密」「平三郎の神速果敢に対し、銀次郎の熟慮断行」「平三郎の一人多業主義に対し、銀次郎の一人一業主義」「平三郎の借金積極経営に対し、銀次郎の自己資本堅実経営」と言われるように著しく対照的であった。

社長時代に銀次郎が取り組んだのは「植林」だった。1936(昭和11)年67歳の時、昭和天皇が苫小牧工場を見学されたとき、
「いまや日本は世界一のパルプ国になろうとしておりますが、スウェーデンの先駆者は、山林を滅ぼす者はスウェーデンを滅ぼすと高唱し、熱心に科学的な山林経営を実行しております。日本も、適材適地主義の植林を奨励する決意でございます」と進講した。

その2年後、合併5周年記念のあいさつで、「企業は営利会社であっても消費者側の利益を主として経営しなければならない」と強調し、「日本の洋紙業界の発展については技術部の進歩に感謝しなければならない。そして、その技術員を養成してくれた大学、専門学校に感謝しなければならない」と述べ、1939(昭和14)年に「藤原工業大学」を設立。後年は、母校の慶応義塾に寄付した。

実業の第一線を退いたあと、商工大臣、勅命行政監察使、国務大臣、軍需大臣を歴任。戦後は、私財を投じて、財団法人「藤原科学財団」を設立。王子製紙の社賓となるや栗山町に「林木育種研究所」を設立した。

1954(昭和29)年の洞爺丸台風で北海道の山林が甚大な被害を受けたとき、すでに86歳の高齢だったために手製の駕籠を考案し、それに乗って道内各地の山林を視察して回った。「木材を大量に使う者は、木を山に返さねばならぬ」と口癖のように語り、90歳の天寿を全うするまで、木に感謝し、山林を大切に思う情熱をつらぬき通した人だった。

藤原銀次郎は、いろんな会社のいろんなポストにおいて、その独創力と実行力を発揮し改革を行っている。
彼を信用して任せた人はえらいが、それに応えた彼もえらい。

企業においても、権限の委譲とかよく言われることであるが、任せきれずにあれこれとちょっかいを出し結局は手取り足取りになってしまっていることも多い。
任せる以上は、大まかなこと以外には口をはさまない我慢が必要だ。


藤原銀次郎のことば
  「覚えてもいてもいなくてもよいようなことをたくさん覚えているから、
   覚えていなければならないことを忘れてしまう。
   だから自分が入用でないことは、みな忘れてしまえばよい」
  「偉くなったら、バカになる修業をせよ」
  「工場は大学の実験室であり、大学は工場の実験室である」
  「祖国が危機に瀕している時に、一市民として戦争に協力するのは当たり前だ」


藤原銀次郎の本
  私の経験と考え方―人をつくる経営法 (講談社学術文庫 (646))