まさに笑いに飢えている

柳田国男

きょうは日本民俗学の開拓者 柳田国男(やなぎた くにお)の誕生日だ。
1875(明治8)年生誕〜1962(昭和37)年逝去(87歳)。

兵庫県田原村辻川(現 神崎郡福崎町辻川)に医者 松岡操の6男に生れた。彼の兄には歌人 井上通泰、弟には国語学者 松岡静雄、日本画家 松岡映丘がいた。
幼時、家が貧しかったことや、生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため、1885(明治18)年ごろに一家離散を経験したことが、生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。

1887(明治20)年12歳の時、茨城県北相馬郡で医院を開いていた長兄 松岡鼎に引き取られ、東西日本の農村民俗の違いを実感した。
1890(明治23)年、進学のため上京、三兄宅に居候した。三兄の知己 森鴎外の知遇を得、また桂園派歌人松浦萩坪のところに入門し田山花袋を知った。
1893(明治26)年、一高に入学した。島崎藤村国木田独歩と親交をもち、「文学界」に新体詩などを発表した。その作品は、『抒情詩』に収録されたが、自らの詩才に見切りをつけた。自邸でサロン的集会を始め、また「イプセン会」を主宰した。

東京帝国大学政治科卒業後、農商務省に勤務、1901(明治34)年26歳のとき大審院判事 柳田直平の養子となった。法制局参事官、貴族院書記官長などを歴任した。しかし官吏は合わなかったようでいろんな衝突を繰り返している。

1908(明治41)年33歳の夏、彼は九州・四国を旅行したが、このとき宮崎県の秘境 椎葉村に一週間ほど滞在、村長の中瀬淳氏から古い伝承を聞き、こういう世界に興味を持った。その年、彼の自宅を岩手県遠野出身の文学青年 佐々木喜善が訪問した。佐々木が郷里で聞き知っていた昔話に柳田は強い関心を寄せた。

そして翌年の夏、遠野を訪問、1910(明治43)年35歳の時に「遠野物語」を出版した。この物語集はもっぱら柳田が佐々木や彼の協力者たちが集めてくれた話を整理したもの。最初の版が出てから大きな反響があり、結果的にこの時点から柳田は農政学者から民俗学者に移行することになった。

1919(大正8)年44歳の時、官僚を辞め、朝日新聞社に入った。1921(大正10)年、国際連盟常設委任統治委員に就任、3期にわたってジュネーブで活躍した。1924(大正13)年、朝日新聞社論説委員として正式入社、1930(昭和5)年の引退までに書いた社説の2割近くが農政関連であるところに、農政学者の面目とその民俗学経世済民性の根源がある。

晩年まで民俗学を中心とする研究に従事し、公私の旅行を利用して全国の口碑伝説を集め、雑誌「郷土研究」を主催した。また伝承文芸、方言研究などの分野にも多くの独創的研究を成し遂げ、平明な文章と広範な知識によって「日本民族学」を樹立、普及させた。急速な近代化にさらされて省みられなくなった伝統的な生活を学問の対象に初めてすえた功績は大きい。

日本芸術院会員、日本学士院会員となり、朝日文化賞、文化勲章などを受けた。1909(明治42)年の「後狩詞記」以後、次々と民俗学研究における業績を上げ、また研究者の組織化と指導に努めた。著書に「石神問答」「遠野物語」「雪国の春」「日本の昔話」「桃太郎誕生」「方言覚書」等がある。

彼が、「遠野物語」の続編を作ろうと原稿を整理している最中に佐々木が待ちきれなくなって「聴耳草子」を出してしまったため、作業が中断してしまう一幕もあったが、結局1935(昭和10)年60歳の時、有志の人たちによって実現した。
各地に民俗学者を育成し、系統的な民俗学研究、郷土研究を行う基礎を築いた。

柳田国男は、ものごとを偏見を捨てて考え、問題点を素直に発言するために、高級官僚としてはなじめないところもあったようだが、農政学の分野においてはその素直さが生かされている。

企業においても、思うことを素直に言える雰囲気の会社はタテマエでは多いのだが、実際はきわめて少ないようだ。思ったことを素直に言える風土においては、感情論は禁物であり、言う方・聞く方双方にそれなりの思いやりや気配りが必要だ。


柳田国男のことば
  「人生には笑ってよいことが誠に多い。しかも今人はまさに笑いに飢えている
  「なぜに農民は貧なりや」


柳田国男の本
  遠野物語 (集英社文庫)
  明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)
  日本の昔話 (新潮文庫)
  漂泊の精神史―柳田国男の発生 (小学館ライブラリー)
  柳田国男事典
柳田国男事典漂泊の精神史―柳田国男の発生 (小学館ライブラリー)明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)遠野物語 (集英社文庫)