筆を折って故郷に骨を埋める

白井喬二

きょうは明治から昭和の小説家で「大衆文学の父」 白井喬二(しらい きょうじ、本名:井上義道)の誕生日だ。
1889(明治22)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(91歳)。

神奈川県横浜市の公舎で鳥取藩士の父 孝道・母 タミの長男として生まれた。当時父は警察官吏として横浜市に奉職中であった。父は晩年、鳥取県の郡長として人々から人格郡長といわれるほど信頼の厚い人だった。
白井は、父の感化を受けたところが多かった。

父の勤務のため東京 青梅(おうめ)、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902(明治35)年13歳の時、米子市の角盤(かくばん)高等小学校に転入した。
ここで下級生の生田春月が発行していた雑誌に『鳩小屋』という作品を寄稿した。
1904(明治37)年15歳の時、鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学した。入学して間もなく上級生から、校内新聞『米城(べいじょう)通信』の編集記者を命ぜられた。その後、学内の同人誌『萌草(もえぐさ)』に参加した。

中学2年のころには、当時米子で発刊されていた『角盤日報』に「星蔭」のペンネームで、小説『空想家』を45回連載した。「学校から帰ると記者が待ち合わせていて、毎日1回あての原稿を渡した」と言う。
鳥取新報』にも『鸚鵡(おうむ)』13回を連載した。

因幡文壇”の第一人者として注目されたが、1908(明治41)年19歳のとき中学4年修了、その後、上京して受験勉強に打ち込み、早稲田から後に日大政経科に転学した。父の司法官希望があったようだ。だが、東京での学友はほとんど文学希望の仲間だった。

白井は、郷里の鳥取県から上京して来た友達の面倒をよく見、雑誌に掲載した古典の現代語訳から得た原稿料を生活費の一部にあてるなどした。文学青年には珍しいほど堅実な生活だった。

1910(明治43)年21歳の時、一時帰郷中、当時の岩美郡面影(おもかげ)尋常小学校に代用教員として3か月勤めた。前年には夏休みを利用して「山陰日日新聞社」の編集部に臨時入社している。

1913(大正2)年3月23歳で、日大政経科を卒業した。白井は、この時すでに作家志望に転じていた。その後、ある化粧品店の文書課長として2年間勤務したが、1920(大正9)年31歳の時、小説『怪建築十二段返し』が「白井喬二」名義の処女作となり、以後作家生活に入った。

1924(大正13)年は白井にとって記念すべき年になった。この年の5月から『サンデー毎日』に連載を始めた小説『新撰組』によって、彼は大衆文学作家としての地位を不動のものとした。次いで7月からは、白井の代表作といわれている『富士に立つ影』を『報知新聞』に3か年にわたって1100回の連載を始めた。

この『富士に立つ影』は、中里介山(なかざと かいざん)の『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』と並ぶ大作で、裾野篇から明治篇までの10篇から成り、時代も江戸の文化・文政のころから明治初年まで70年余に及んでいる。登場人物も多く、主要な人物だけでも約60名で、すべての登場人物をあわせれば1000名にもなる。

内容は、赤針(せきしん)、賛四(さんし)両流派の築城家熊木家と佐藤家の三代にわたる物語で、熊木伯典(くまき はくてん)と佐藤菊太郎が富士の裾野の築城について争い、各々の子 公太郎と兵之助が下野(しもつけ)の築城で争うといった人間の対立、闘争を描いたものだ。
評論家 荒正人(あら まさと)は、「日本民族の心理に最も深く触れた作品だ」と評している。

白井の時代小説に共通していえる魅力は、伝奇性に富んだスケールの大きさにある。さらに、時代小説には珍しい陽性なタイプの人間像をえがいている。
1926(大正15)年1月の評論『大衆作寸言』から1940(昭和15)年3月『遺言文学論』まで、次々と評論を発表し、白井は「大衆文学」の目的と方向を示した。

彼は談話『現在の大衆文芸』の中で、大衆文学は純文学と目的は同じで、文学は一部の純文学愛好者だけのものではなく、すべての人々のものであるという国民文学への方向を示している。

彼の理論は当時の文芸評論家の支援が得られず、実を結ぶまでに至らなかったが、彼の実践と文学活動は高く評価され、1969(昭和44)年80歳の時に長谷川伸賞を贈られた。

戦中はペン部隊の団長として武漢作戦に従軍した。また日本文芸中央会顧問、大政翼賛会調査委員、日本文学報国会常任理事等を歴任した。
彼は多数の作品を『白井喬二全集』(学芸書林刊)に残し、1980(昭和55)年11月9日、亡くなった。米子市湊山公園内には、彼の文学顕彰碑が建てられている。

白井喬二の作家としての歩みは、そのまま日本における大衆文学の成立と発展をあらわしている」、文芸評論家の尾崎秀樹(おざき ほつき)はこう述べた。
さらに、白井が大衆文学史の上で果たした大きな功績は3つあると言っている。

一つは、大衆作家の自己主張の場として「二十一会」を結成し、雑誌『大衆文芸』を創刊したこと。二つは、『現代大衆文学全集』全60巻を刊行するため率先協力し、大衆文学作家の社会的地位の向上と、読者の大衆文学に対する認識を正すことに努めたこと。三つめは、作品を通して大衆文学の新しいタイプの明朗型の主人公を作り出したことである。

「二十一会」は、1925(大正14)年、白井の呼びかけによって生まれた大衆作家の親睦機関である。ここに直木三十五長谷川伸・乱歩・小酒井不木などを結集させ、毎月会合がもたれた。会を重ねるうちに雑誌発行の計画が進み、10月には『大衆文芸』創刊の挨拶文が配布された。この挨拶文を書いたのは白井だった。

1927(昭和2)年、平凡社から『現代大衆文学全集』正40巻・続20巻を刊行させた特筆すべき編集企画者でもあった。
それまでの白井の献身的な協力は、彼のことばによると、「我が家を編集所として内容見本を作成し、失敗の時は筆を折って故郷に骨を埋める覚悟」であった。

第1回配本の白井喬二著『新撰組』は、初版33万部をこえる盛況であった。彼は自伝の中で、「全集が成功したことは、とりもなおさず新興文学が迎えられた証左だった」と述べている。白井が自ら謄写版の速報を印刷して各作家に連絡したり、自家用車を動員して各小売店をまわって宣伝に努めた結果でもあった。

「大衆文学の父」、白井をズバリ的確にいいあらわすことばはこれ以外に無い。「大衆文学」は、白井が考えた名称で、ひろく一般市民に愛され好まれる文学のこと。仏教用語だった「大衆」(だいしゅ)を「たいしゅう」と読み替えている。そして白井は、そのパイオニアてあり花形作家だった。
妻は、枢密参議官 中島男爵の孫娘の鶴子。

白井喬二は、時代小説を「大衆文学」として大きなスケールで明るくかいた小説家として評判になったが、当時の純文学に対しては違いは無いと言いながらもある種の劣等感を持っていたのかもしれない。
現代なら一躍売れっ子作家になっていただろう。

企業においても、利益を出している部門があれば、開発途上で赤字の部門もある。また、陽の当たる部署もあれば、下支えの部署もある。どの部門・部署であれ、その時点では必要であるから存在しているわけで、全力をつくして業務を遂行しなければいけない。


白井喬二の本
  富士に立つ影〈1〉裾野篇 (ちくま文庫)
  現代語訳 南総里見八犬伝 上 (河出文庫)
  新撰組 (上) (大衆文学館)(下)
  普及版・盤嶽の一生
  白井喬二 (ちくま日本文学全集)
白井喬二 (ちくま日本文学全集)普及版・盤嶽の一生現代語訳 南総里見八犬伝 上 (河出文庫)富士に立つ影〈1〉裾野篇 (ちくま文庫)