凛とした厳しさと高い気品

鏑木清方

きょうは明治・昭和の日本画鏑木清方(かぶらき きよかた、本名:健一)の誕生日だ。
1878(明治11)年生誕〜1972(昭和47)年逝去(93歳)。

東京神田佐久間町に生まれる。父は戯作者で「東京日日新聞」「やまと新聞」の創始者でもあった條野採菊(じょうの さいぎく)。多才な父の影響を受け、幼少期から文学や芝居に親しんだ。1889(明治22)年11歳の時、東京英語学校に入学した。1895(明治28)年17歳の時、母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。

1891(明治24)年、挿絵画家としても名のあった水野年方に師事し挿絵画家を志した。1893(明治26)年、年方より「清方」の雅号を授かった。後に、新聞に挿絵を描きはじめ、泉鏡花尾崎紅葉島崎藤村など多くの著名作家たちと交わり、その口絵や挿絵を描いて活躍し、挿絵界では早くから名声を得た。
挿絵画家として身を立てる一方で、本格的な日本画に取り組み、当時の画壇の最高峰とされた文展や帝展に出品し、数々の賞を受賞した。
1901(明治34)年23歳の時、梶田半古の研究会に出席し、前田青邨小林古径を知った。同年、都築真琴、池田輝方らと「烏合会(うごうかい)」を結成した。

1903(明治36)年25歳で都築照と結婚。木挽町(こびきちょう)の自宅を「紫陽花舎」と名づけた。1909(明治42)年31歳の時、第三回文展「鏡」を出品、初入選した。以来、帝展・新文展日展と官展系で活躍。
1916(大正5)年、吉川霊華結城素明・松岡映丘らと「金鈴社(きんれいしゃ)」を創設した。1919(大正8)年の第1回帝展より審査員をつとめた。

「一葉女史の墓」「にごりえ」「ためさるゝ日」「築地明石町」「三遊亭円朝像」など近代美術史に残る幾多の傑作を残した。又すぐれた随筆家としても知られ、回想記「こしかたの記」などの著作がある。1937(昭和12)年59歳の時、帝国芸術院会員、1944(昭和19)年66歳の時、帝室技芸員となった。1954(昭和29)年に文化功労者に選ばれ、同年文化勲章を受章した。

清方は「西の(上村)松園、東の清方」と称され、清楚な美人画において名を知られている。その一方で江戸の風情を残す東京・下町の人々の日常生活を好んで描き、深い文学的素養を基に、細やかな眼差しと情感あふれる清らかな作風によって、凛とした厳しさと高い気品をもった作品を多く描いた。

1972(昭和47)年に亡くなった清方は、文明開化、大震災、戦火など明治から昭和への大きな時代の変革を経験したが、過ぎ去った江戸や明治という時代に生きた人々やその生活への深い共感は、清方の作品の根底に一貫して流れている。

歌川国芳月岡芳年・水野年方の画系を継ぐ清方は、江戸時代以来の抒情的な浮世絵を、明治の近代的な感覚のうちに、新しい美人画・風俗画へと発展させ、独特の清楚な筆致により、瀟栖な画境をひらいた。
また、卓上で手にとり心ゆくまで鑑賞できる「卓上芸術」を提唱し、文学を絵巻物や画帖などに表してその精華を示した。

鏑木清方は、浮世絵の伝統を継承しながらも、その中に近代的な手法を取り入れて自分の画法を創り出している。挿絵画家をしていた関係で文学的な感覚が盛り込まれていると思われるが、一枚の絵にもストーリーがあるということだろうか。

企業においても、各種の管理手法があるが、必ずしも新しい手法が優れているとは限らない。良い所は残しながら、自社の状況に合わせて新しく変えていくようにすると、自社にマッチした合理的な手法が構築されるはずだ。


鏑木清方の作品
     
   盆踊図                     紅葉


鏑木清方の本鏑木清方 (新潮日本美術文庫)
  こしかたの記 (中公文庫 M 40)
  鏑木清方随筆集 (岩波文庫)
  鏑木清方 (巨匠の日本画)
  市井の文人 鏑木清方
  鏑木清方 (新潮日本美術文庫)