最も革命的なツール

モークリー

きょうは世界初の汎用コンピュータを発案したアメリカの技術者 ジョン・モークリー(John William Mauchly)の誕生日だ。1907(明治40)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(72歳)。

米国オハイオ州シンシナティーで生まれた。父は物理学者で学問的な環境で育った彼は、早熟で好奇心の旺盛な子供だった。5歳の時に電球と電池で懐中電灯を作り、友達の家の屋根裏部屋を探検しようとした。友達の母親は、モークリーが作った装置が火事を引き起こすのではないかと心配し、彼から懐中電灯を取り上げ、かわりにロウソクを持たせたとか。

父親の影響を受け、1925年18歳の時ジョンズ・ホプキンス大学工学部に入学したが、物理学に鞍替えした。1932年25歳の時に物理学の博士号を取得した。
彼は、分子エネルギーの計算や、 後に手を出した気象学上の計算などで、計算機が無くて歯がゆい思いをしていた。
モークリーは「エニアック(ENIAC:Electronic Numerical Integrator and Computer)」を手がける前に何台かの電気式計算機を試作した。

安い放電管を使った10進法の計算機、フリップフロップ回路を応用した信号機、5個の放電管を使った2進カウンター、アナログ型の調和解析機などなどで、 お金が無く苦労しながらも計算機の構想を練り上げていった。

転機が訪れるのは1941年34歳の時で、折しもヨーロッパで第二次世界大戦が始まっていた。ペンシルバニア大学のムーア・スクール(電子工学部)では戦時要員確保のため、電気工学者要請講座を開くことになり、計算機のため電気工学をもっと知りたかったモークリーも受講した。

そこでの講座はモークリーが期待したレベルではなかった。モークリーは彼の電子式計算機の構想をムーア・スクールで話し、 みんなの関心を計算機に向けさせようとしたが、誰も関心を示さなかった。ただ一人、ムーア・スクールの院生で講座のアシスタントをしていたジョン・プレスパー・エッカートはまじめにモークリーの話を受け止めた。二人は急速に接近し計算機の構想を話し合った。

同じ頃、陸軍の弾道研究所は、弾道計算のためムーア・スクールに人を出していた。陸軍では膨大な弾道計算のため人海戦術も限界で、速い計算機を必要としていた。1943年、陸軍がモークリーの構想を聞きつけて企画書を出すように言った。

ペンシルバニア大学の助教授だったモークリーはエッカートと協力して徹夜で企画書を仕上げ、ついに世界初の電子式汎用計算機の「ENIACプロジェクト」がスタートすることになった。

ENIACは1946年2月15日にペンシルバニア大学で完成し、公開された。当時の人々は、ENIACが人間と同等の演算能力を本当に持っているのか、この奇妙な機械に特殊な科学的用途以外の使い道があるのか、半信半疑だった。

ENIACは、ペンシルベニア大学ムーア・スクールの地下室に設置されていた。驚異的に複雑で巨大なマシンで、設置面積は170平方メートル、重量は30トンに及んだ。1万7000本の真空管を搭載し、160キロワットもの電力を消費するため、電源を入れるとフィラデルフィア市全体が電圧低下に陥ることもしばしばだった。

プログラム内蔵方式ではないため、プログラムは人手で配線して作った。また、内部構造に10進数を採用し、符号付き10桁の演算が可能で、演算能力は、毎秒5000回の加算、14回の乗算、記憶能力は、20個の変数と300個の定数で、大容量の外部記憶装置は持っていなかった。開発費の総額は、49万ドルに達した。

計算機の故障率は、週に真空管が2〜3本壊れる程度で、稼働率が90%以上だった。これは、真空管を定格電力の10%未満という低い電圧で動作させ、電源は落とさない等、多くの工夫があったためだった。しかし、陸軍に移設し、電源を毎日落とすようにしたところ、稼働率は50%にまで下がったようだ。

特許権をめぐる最初の争いは、モークリーとエッカートが、ENIACの特許をペンシルベニア大学に譲渡するよう求められたときに起こった。
ふたりはこの要求を断ったため、学者としての仕事を続けることが困難になり、ペンシルベニア大学を去る結果になった。

世界初のコンピューターの誕生により「ENIACプロジェクト」の最高顧問を降りた1946年後も、モークリーはエッカートと一緒の道を歩んだ。今度はビジネス世界であった。二人ともずっと学者として生きてきたので、資金集めや、商業契約など初めての経験だった。それにコンピュータなど、その頃一般の人は全然認識がなかったので、スポンサーを探すのに非常に苦労した。

最初は「エレクトロニック・コントロール社」という合名会社で1946年39歳の時スタートし、「バイナック(BINAC)」を開発した。BINACは世界で初めて、データの保存にパンチカードではなく磁気テープを使った。翌年「エッカート・モークリー・コンピューター社(EMCC)」という株式会社にした。

しかし資金繰りは相変わらず難しく、ついに1950年43歳の時、レミントン・ランド社に買収された。翌1951年44歳の時、記念すべき世界初の市販コンピュータ「UNIVAC-I」が完成し国勢調査局に納入された。1952年には米大統領選挙の結果予想にも使われた。ユニバック(UNIVAC:Universal Automatic Computer)とうい名前を思いついたのはエッカートだった。

EMCCが持っていたENIAC特許権は買収によりレミントン・ランド社の手に渡った。同社は後に、米スペリー・ランド社と合併し、特許権も同時にスペリー・ランド社に移管された。

その後スペリー・ランド社は、コンピューターの開発企業すべてに特許使用料を請求するようになった。ところが、米ハネウェル社(現 ハネウェル・インターナショナル社)は特許使用料の支払いを拒否し、ENIAC特許権保有していたスペリー・ランド社とモークリーを反トラスト法違反で提訴した。

この訴訟の審理は、1971年6月に開始された。アール・ラーソン裁判官は1973年4月、ハネウェル社がENIAC特許権を侵害している事実を認めた。しかし同時に、ENIACの特許そのものが無効だと言い渡した。

特許の出願書が提出されたのが、ENIACの一般利用が開始された1年後だったこと、ENIACの一部にアイオワ州立大学のジョン・V・アタナソフの研究成果が使用されていることが、特許無効の理由として挙げられた。

アタナソフは電子計算機の試作品を1938年に開発し、「アタナソフ・ベリー・コンピューター(ABC)」と名付けた。アタナソフとその支持派では、ENIACの設計がABCをもとにしたものだと言った。しかし、モークリーの支持者の多くは、ABCを単なる試作機にしか過ぎないと考えていた。

ENIACの特許を巡っての裁判では結局モークリーは敗訴した。これは、モークリーが曖昧な証言を繰り返したことと、ENIAC開発以前にABCを見ていたためだった。この裁判に負けたことにより、世界初のコンピュータの称号は、公的にはアタナソフのABCに与えられた。

また、一般にジョン・フォン・ノイマンが「コンピュータの父」と呼ばれるが、 実は彼は本当の「父」ではない。その栄誉は、最初のデジタル式電子計算機を設計・製作したモークリーとエッカートに贈られるべきなのだ。モークリーらが決定したコンピュータの設計方式を、あとから開発に参加したノイマンが、勝手に自分の名前で発表してしまったため、現在のコンピュータは、「ノイマン方式」と呼ばれている。

モークリーは、特許権をめぐる長年の法廷闘争で気が滅入り、疲れきってしまった。そして、一介の学者や技術者がコンピューターに関する特許を保有することになっては、数十億ドル単位の損失を被るという政府や企業の巨大な力に苦しめられた。

モークリーは、創造性にあふれ、20世紀で最も革命的なツールを発明した人物だった。しかし、長年の苦労に対して何の代償も払われず、特許も失い、精神的にも金銭的にも空っぽになってしまった。そして極めつけの侮辱として、発明家としての業績まで認められていない始末だった。

いくら理不尽な裁判であっても、訴訟には勝たなければ意味がない。それは特許法を知らなかったでは済まされない問題である。特許は、それを他社に使用させない専有とする考え方が普通だが、他社から特許を侵害していると訴訟されない防衛のためとする考え方もある。


モークリーの本エニアック ― 世界最初のコンピュータ開発秘話
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