穏健な自由主義者として

大内兵衛

きょうは大正・昭和の経済学者 大内兵衛(おおうち ひょうえ)の誕生日だ。1888(明治21)年生誕〜1980(昭和55)年逝去(91歳)。

兵庫県淡路島に生まれた。旧制五高を経て1913(大正2)年25歳で東大経済学部を卒業、いったん大蔵省に入省し2年間ニューヨークに勤務するが、1919(大正8)年31歳の時に退職し、母校東大の財政学助教授となった。

同年末、兵衛が編集発行人の『経済学研究』創刊号に、同大助教授 森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載した。
同大教授 上杉慎吉や天野辰夫ら右翼団体興国同志会がこれを危険思想として宣伝、罷免を要求した(森戸事件)。
東大を官僚の養成機関として考えていた政府は、1920(大正9)年1月、朝憲紊乱(ちょうけんびんらん:政府の転覆など、国家の基本的統治組織を不法に破壊すること)により森戸と兵衛を起訴・休職処分とした。

その後、私費でヨ−ロッパに留学して「マルクス主義経済学」を研究、1922(大正11)年に帰国後東大に復職、1923(大正12)年 教授になった。
その間「労農派」の指導者として「講座派」との間に行った日本資本主義論争は有名。労農派の総帥として社会党左派に強い影響力を及ぼした。

日本の大学の経済学部の「マル経」の基礎をつくり、有沢広巳や美濃部亮吉など後進の学者を育てた。だが、このグル−プは1938(昭和13)年、治安維持法違反で学園を追放され、敗戦までいっさいの言論活動を許されなかった。「労農派教授グループ事件」(第二次人民戦線事件)。

1944(昭和19)年 辞職したが、戦後は東大に復職。日本学士院会員となり、内閣統計委員会委員長、社会保障審議会会長、日本統計学会長など公職をつとめた。1949(昭和24)年 東大退官後、法政大学総長になった。

また、日本社会党左派の理論的指導者として活躍し、門下の美濃部亮吉東京都知事立候補にあたっては、それを強く支持して美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫き通した。

平和問題懇談会のメンバーでもあり、穏健な自由主義者としての評論などでも活躍した。また晩年は、マルクス主義の立場にたつ論文の発表を通じ、社会主義運動への影響力も大きかった。主な著書に「財政学大綱」などがある。A・スミスの「諸国民の富」、エンゲルスの「空想より科学へ」などの翻訳もある。

大内兵衛は、日本におけるマルクス主義経済学の指導者であり、マルクス経済学の立場から財政学を体系化した。
また戦後の社会福祉制度や平和問題、憲法問題でも活躍している。

企業においても、歴史的な見地からすると間違いであっても、その時点では対抗案として議論の対象となり、採用案をより確かなものへとする役目を果たしている。
どんな案であっても、一度は「そんな考え方もあるのか」と受け入れる懐の大きさが欲しいものだ。


大内兵衛のことば
  「ロシアの経済学は、20世紀の後半において進歩的な特色のある学問として
   世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。
   …こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよその光彩を加える名は
   レーニンスターリンでありましょう」


大内兵衛の本最終講義空想より科学へ (岩波文庫 白 128-7)
  経済学
  政治算術 (岩波文庫 白 101-2)
  空想より科学へ (岩波文庫 白 128-7)
  貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)
  最終講義