辛辣、かつ風刺に満ちた

杉村楚人冠

きょうは随筆家、俳人でもあるジャーナリスト 杉村楚人冠(すぎむら そじんかん、本名:杉村廣太郎)の誕生日だ。
1872(明治5)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(73歳)。

和歌山県にて旧和歌山藩士 杉村庄太郎の子として生まれる。1875(明治8)年3歳の時、父と死別し、以来、母の手で育てられた。16歳で和歌山中学校を中退、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)で学ぶが、これも中退した。

アメリカ人教師イーストレイク(Frederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890(明治23)年18歳で卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われた。
1891(明治24)年19歳にして「和歌山新報社」主筆に就任するが、翌1892(明治25)年再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学した。
その後、本願寺文学寮の英語教師を勤めながら「反省雑誌」(のちの「中央公論」)の執筆に携わるが、寄宿寮改革に関する見解の相違から、1897(明治30)年25歳の時、教職を棄て三たび上京。1898(明治31)年、社会主義研究会に加入し、幸徳秋水片山潜などの知遇を得た。

1899(明治32)年、在日アメリカ合衆国公使館の通訳に就任。1900(明治33)年、「新仏教」を創刊。
そして1903(明治36)年31歳の時「朝日新聞社」に入社した。

入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していた。1904(明治37)年8月、レフ・トルストイ日露戦争に反対してロンドン・タイムズに寄稿した「日露戦争論」を全訳して掲載した。

戦争後、特派員としてイギリスに赴いた。滞在先での出来事を綴った『大英游記』を新聞紙上に連載、軽妙な筆致で一躍有名になった。彼はその後も数度欧米へ特派された。1908(明治41)年、世界一周会(朝日新聞社主催)の会員を引率して渡米した(3月18日〜6月21日)。

帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、1911(明治44)年6月、「索引部」(同年11月、「調査部」に改称)を創設した。これは日本の新聞業界では初めてだった。また1924(大正13)年52歳の時には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設し部長に就任した。縮刷版の作成を発案したのも彼だった。

これらの施策は本来、膨大な資料の効率的な整理・保管により執筆・編集の煩雑さを軽減するために実施されたものだが、のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。

その他、校正係であった石川啄木(1909明治42年入社)の文才をいち早く認め、彼を選者として「朝日歌壇」欄を設けたり、「日刊アサヒグラフ」(のちの「週刊アサヒグラフ」)を創刊するなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。

楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、『最近新聞紙学』(1915大正4年)や『新聞の話』(1930昭和5年)を世に送り出した。

外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における「新聞学」に先鞭をつけた。世界新聞大会(第1回は1915大正4年にサンフランシスコで、第2回は1921大正10年にホノルルで開催)の日本代表に選ばれたこともあった。

関東大震災(1923大正12年)後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現 我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、「湖畔吟」「湖畔哲学」など湖畔文学というべき多くの作品を著した。

1924(大正13)年7月1日、アメリカで新移民法が施行された。同法には日本からの移民を禁止する条項が含まれていたため、日本では「排日移民法」とも呼ばれ、激しい抗議の声が上がった。楚人冠は「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判した。

また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、「我孫子ゴルフ倶楽部」の創立に尽力し、「アサヒグラフ」誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。また、青少年に関心を寄せその指導に熱意を持っていた。

1929(昭和4)年 監査役、1935(昭和10)年 相談役に就任した。1945(昭和20)年10月3日、亡くなった。1951(昭和26)年、彼の指導下にあった湖畔吟社の有志により、邸宅跡地に句碑が建立された。陶芸家 河村蜻山(せいざん)が制作した陶製の碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と刻まれている。

「楚人冠」の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。『史記』に「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」とある。(「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)
杉村は、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った。

1933(昭和8)年に尋常小学校唱歌として採用された「牧場の朝」(福島県鏡石町の宮内庁御料牧場であった「岩瀬牧場」を描いたといわれる)は、長年「作詞者不詳」とされてきたが、楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」が1973(昭和48)年に発見されたのを契機に、楚人冠が作詞者であるとの説が浮上。その後若干の曲折があったが、現在ではこれが定説とされている。

杉村楚人冠は、明治・大正・昭和にかけて朝日新聞社の記者・最高幹部として活躍した国際肌豊かな人物だった。反骨精神に満ち、辛辣、かつ風刺に満ちた評論で知られていたが、第二次大戦下に政府の弾圧を受け、筆を置いたまま、終戦直後に亡くなっている。

企業においても、特に若い時は反骨精神が旺盛で、正論を盾に元気よく持論を展開するぐらいであって欲しいものだ。しかし、客観的には理解できるが、そのような人は包容力の大きい上司に巡り会わない限りはつぶされてしまいがちだ。
いくら反骨精神と言っても、むやみやたらと反論ばかりではなく、その場に応じた意見が言える人こそ未来の大物だ。


杉村楚人冠の本
  へちまのかは
  かにかくに