止む事のない情熱から

岩波茂雄

きょうは岩波書店を創業した 岩波茂雄(いわなみ しげお)の誕生日だ。
1881(明治14)年生誕〜1946(昭和21)年逝去(65歳)。

長野県諏訪郡中州村(現 諏訪市)の農家に生まれた。早くに父を亡くした茂雄は、1898(明治31)年 旧制諏訪中学校(現 長野県諏訪清陵高等学校)4年17歳の時、 東京遊学の念に燃えて、日本主義の思想家で日本中学校校長 杉浦重剛に手紙を書き、翌年上京。日本中学5年に入学した。

1901(明治34)年21歳で、旧制第一高等学校に入学し、阿部次郎、安部能成らとともに読書や聖書に親しむようになった。1903(明治36)年22歳の時、一高生 藤村操の投身自殺にショックを受け、夏の間 野尻湖の孤島にこもるなどして学校は落第した。
1905(明治38)年24歳の時、東京帝国大学哲学科選科に入学し倫理学を学んだ。神田北神保町に下宿する一方、日曜日ごとに小山内薫志賀直哉らとともに内村鑑三の聖書講義へ出席した。1907(明治40)年26歳で結婚し、本郷弥生町に移り住んだ。このころ「内外教育評論」の編集を手伝った。

1908(明治41)年、帝大を卒業。神田高等女学校の教師となり、教頭として修身などを教えた。東大出は、ほとんどが官僚の職についていた時代に、岩波はあえて教職の道を選んだ。

日本の教育の中で、女子の教育が最も遅れていると思ったからだ。岩波は情熱溢れる教師で、終日、生徒の教育に力を注いだが、学校の教育方針に飽き足らず、結局は四年余りで教職を退いた。

そして、彼が選んだのは、社会に役立つ商人の道だった。教育に燃やした情熱を、今度は出版を通して人々の教育へと向けた。故郷に戻って田畑を売却して資金を作った。これをふところにして家を出るとき、眼前に八ヶ岳が初夏の朝日を浴びて輝くのを見て、「きょうは天気がいいなあ」と言って旅立ったそうだ。

1913(大正2)年32歳の時、書店開業のため女学校を退職。神田区南神保町に移転した。同年8月5日、古本販売と新刊図書・雑誌を扱う「岩波書店」を開業した。先輩の意見に従って古本屋を始めた岩波は、翌年には出版を決意。 「低処高思」をモットーに店員4名での旗揚げだった。

書店では値引き販売が普通だった当時、「正札販売」とした。1914(大正3)年9月33歳の時、夏目漱石の「こころ」を刊行。岩波書店ではこれが処女出版となった。1919(大正8)年からは新刊専門販売店となった。1920(大正9)年に小石川の中勘助宅を購入し、自宅とした。

1923(大正12)年の関東大震災では、店舗・印刷工場などすべて焼失するが、バラック建てで復興した。1924(大正13)年43歳の時には年間80点を刊行、店員も37名を数えた。1925(大正14)年、最初の「図書目録」を発行。収録点数330点となった。

1927(昭和2)年46歳の時、東西の古典の普及をめざして「岩波文庫」を創刊。7月10日に23点を発行し、学生や知識人から圧倒的支持をえた。 同月、芥川龍之介が自殺。遺書により全集の出版を託された。1928(昭和3)年47歳の時、岩波文庫182点を刊行したが、売れ行き不調で在庫が50万冊に膨らんだ。

1930(昭和5)年49歳の時、岩波文庫に「売上カード方式」を導入。1931(昭和6)年、雑誌「科学」を創刊。同年、「岩波文庫目録」を作成した。

1932(昭和7)年51歳の時、岩波文庫教科書版30点を発行。1933(昭和8)年、岩波文庫「イミターショ・クリスチ」絶版。春秋社が同書を無断で出版したため告訴。この頃、茂雄はFIAT814を愛車としていた。「岩波全書」を創刊。ミレーの種まく人をトレードマークにした。

1936(昭和11)年55歳の時、奥付記載の「著訳者名にふりがな」を付け始めた。この年、新刊点数262点、店員103名。1938(昭和13)年、岩波文庫社会科学関係書が発禁処分となった。PR誌「岩波月報」を「図書」と改題した。

1939(昭和14)年58歳の時、奥付に「落丁本・乱丁本は取り替える」旨表示。同年、従来の委託制を改め、「買切り制」を実施した。

1940(昭和15)年、津田左右吉の著書「神代史の研究」などをめぐって、著者と岩波茂雄が出版法違反で起訴された。資材不足のため岩波文庫の栞(しおり)を廃止。1941(昭和16)年、岩波文庫・新書も買切り制を実施。岩波文庫の活字が当局の要請により9ポイントとなった。この年、店員178名。

1942(昭和17)年61歳の時、太平洋戦争突入後、出版事情が急速に悪化し、岩波書店の在庫も底をついた。文庫は1200点中50点、新書は80点中30点を残し品切れ。全書は全点品切れ。当局より不要不急の翻訳ものの出版差し止め処置。翻訳文学の刊行取り止め。

1944(昭和19)年63歳のとき、用紙割り当ての減少により、多くの雑誌を休刊。1945(昭和20)年64歳の時、多額納税者議員として貴族院議員に当選。5月、空襲のため自宅を焼失。店員の多くが疎開し、残ったのは13名。

戦後の混乱期、物資が不足する中で、地元諏訪中洲村の青年の強い希望と熱意で、刊行図書の寄贈を開始、「信州風樹文庫」開設の基礎を開いた。1945(昭和20)年8月終戦。9月、貴族院に初登院したが、質問の機会もなく閉院。

1946(昭和21)1月に総合雑誌「世界」を創刊、2月には出版人としてはじめて文化勲章を受章したが、4月25日に亡くなった。

岩波の人間好き、会合好きの交友が大きな人脈となって岩波書店を発展させ、学者、教育家、評論家を育てた。戦争中は軍部の圧迫により廃業の危機に追いこまれたが、屈せず加担しなかった。岩波文庫その他学術書の出版を通じて日本文化の向上に寄与した。

岩波茂雄岩波書店を始めた動機は、教育に対する止む事のない情熱からだった。最初は教師をしていたが、それだけでは一部の人しか対象にならないと考えたのかもしれない。

企業においても、教育は非常に重要な課題だが、自己啓発だけでなく、社内での座学や業務を通して行うOJTを、計画的・継続的にやらなくてはいけない。重要なことは、教える人の人間性の高さが要求されることだ。


岩波茂雄のことば
  「実際に世のためになるものなら、事業的にも必ず成立する。
   世のためにならぬものなら成立するはずがない。
   これは道義と経済の一致を物語る」


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