公平に国家のためを思えば

伊藤博文

きょうは明治維新の立役者で第1・5・7・10代首相 伊藤博文(いとう ひろぶみ、幼名:利助・俊輔、号:春畝)の誕生日だ。
1841(天保12)年生誕〜1909(明治42)年逝去(68歳)。

長州・周防(すおう)国熊毛郡束荷(つかり)村(現 山口県熊毛郡大和町)字野尻に生まれた。父は長州藩軽率 伊藤直右衛門の庸人 林十蔵、母は琴子。家が貧しく、12歳頃から奉公に出された。「利助のひょうたん、青びょうたん、酒飲んで赤くなあれ」といわれるほど顔色が悪かった。

14歳の時、父 林十蔵が伊藤家の養嗣子となって最下層の士分となり、伊藤姓を名乗った。
1856(安政3)年15歳の時、藩命で相州浦賀警衛に出役した際、来原良蔵に見出され、その紹介で松下村塾に学び、高杉晋作らと尊王攘夷運動に身を投じた。
その後、長州藩の伝習生として長崎で洋式操練や英語を習得、1859(安政6)年18歳の時、桂小五郎木戸孝允:きどたかよし)に従って尊王攘夷運動に参加、1862(文久2)年12月21歳の時、品川御殿山の英国公使館焼き打ちに加わった。

翌年、井上馨 (聞多)と密に渡英、外国の新しい文明に触れるが、四国連合艦隊長州藩攻撃計画を知って帰国、藩論の転換をはかったが失敗した。さらに第1次長州征伐を迎えて藩首脳の屈従的な処置に憤激して高杉らと挙兵、藩保守派の軍隊を圧倒、これ以後、藩の主流派となり主に対外折衝の任にあたった。

開国・富国強兵論に転向、第2次征長戦の際は、汽船や兵器の購入に尽力し、土佐藩坂本龍馬の助けを得て薩摩藩長州藩薩長連合を成立させて王政復古をむかえ、名を博文と改めた。

明治に入り新政府に仕え、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となった。1869(明治2)年4月28歳の時に上京、1869(明治2)年7月大蔵少輔、翌年 民部少輔兼任となり、木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。

同年10月には財政幣制調査のため渡米、1871(明治4)年11月岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴した。この間に同じ副使の大久保利通の信頼を得るに至った。1871年12月、サンフランシスコ市長歓迎のパーティーで伊藤は、日本側を代表して、日の丸を指し次のように英語で演説した。

「現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念をもって世界に人々から見られるようになるだろう」

帰国後、大久保利通の内治優先を支持して西郷隆盛板垣退助らの朝鮮派遣(征韓論)に反対、1873(明治6)年10月32歳の時、西郷らが下野(げや:政府の要職を辞して民間に下ること)した後、参議(太政官に設置し、大政に参与した官名で、左右大臣に次ぐ正3位相当)兼、工部卿(こうぶきょう:殖産興業政策推進のため設置された政府機関である工部省の長官)となり、大隈重信と共に大久保を補佐した。

1875(明治7)年には大阪会議を周旋して漸次立憲政体に進む方向を詔勅で示し、元老院・地方官会議を新たに設けて政治体制の改革をはかった。1878(明治11)年5月大久保が暗殺された後、参議兼内務卿(ないむきょう:警察、地方行政などを統轄した内務省の長官。後、内務大臣に名称変更)となった。

このとき、漸進的な国会開設論を唱えて、大隈重信左大臣(明治初期の最高官職のひとつ)の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)に提出した「立法・行政・司法の三権分立」の原則にたって、民選議院において多数の議席を獲得した政党の党首が首相に就くというイギリス型政党政治実現の意見に反対し、1881(明治14)年10月11日の御前会議で大隈を失脚させた。「明治14年政変」

翌1882(明治15)年3月40歳のとき渡欧、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法調査を行い、帰国後、1883(明治16)年 華族令の制定をはじめ、立憲制に対応する諸制度の改革に着手した。

1885(明治18)年12月44歳の時に「内閣制度」を創設、初代内閣総理大臣(第1次伊藤内閣)となり、中央政府や地方制度を整備、学校令を制定して教育体系を整えた。なお、伊藤が総理大臣に就任したときには議会制度は存在しなかった。

翌1886 (明治19)年に憲法草案起草に着手し、1888(明治21)年4月枢密院設置とともに議長となって憲法草案の審議にあたり、1889(明治22)年2月11日「大日本帝国憲法」を発布するとともに、皇室典範・皇室財産を確立する一方、自由民権運動には保安条例を制定して弾圧した。

1890(明治23)年10月49歳の時、貴族院議長(第1議会のみ)、翌年 枢密院議長再任後、1892(明治25)年8月 第2次伊藤内閣を組織、1894(明治27)年7月には「日英通商航海条約」を締結した。

その直後、東学党の乱を契機に朝鮮へ出兵、日清戦争(1894明治27年〜1895明治28年)を強行した。挙国一致の体制で戦争指導にあたり、1895(明治28)年54歳の時、講和条約を締結したが、その直後に三国干渉をうけ、遼東半島の還付を余儀なくされた。

日清戦後は自由党と提携し、1898(明治31)年1月56歳の時、第3次伊藤(連立)内閣を組織し、地租増徴等増税案を議会に提出したが、憲政党の反対に遭遇して総辞職、元老(げんろう)たちの反対を押し切って大隈、板垣を後継に押し、日本最初の「政党内閣」(第1次大隈憲政党内閣)を成立させた。

元老:重要な政治問題について天皇の諮問に答える国家の最高機関的役割を果たした政治家。詔勅を受けて元勲優遇とされた。実際は黒田清隆伊藤博文井上馨西郷従道大山巌松方正義山県有朋桂太郎西園寺公望の9人で、西園寺の死をもって消滅した。

この頃から中国情勢の緊迫化するなかで国内体制安定の必要を痛感、政党結成に乗り出し、1900(明治33)年9月59歳の時、伊藤系官僚と憲政党員を中心に「立憲政友会」を結成して総裁に就任、第4次伊藤内閣を組織したが、山県有朋(やまがた ありとも)系の官僚派と対立した。

1903(明治36)年7月、3度目の枢密院議長となり、対露開戦決定に参画、日露戦争後は大使として韓国に赴き、第2次日韓協約を結び、韓国統監府を設置、初代韓国統監となり、韓国の保護国化を推進した。1907(明治40)年、ハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させ日本の内政権を拡大、また韓国軍隊を解散させた。

1909(明治42)年6月統監を辞し、4度目の枢密院議長となり、同年10月26日満州視察と日露関係調整のため満州を訪れた際、ハルピン(哈爾浜)駅に迎えに出たロシアの大蔵大臣に頼まれてロシア兵の閲兵(えっぺい)した直後、駅頭で韓国の民族運動家 安重根(あんじゅんこん)に射殺された。
伊藤は下手人が韓国人だと知ると、嘆息して「馬鹿な奴ぢゃ」と呟いて事切れた。

伊藤は勲章や制服が大好きで、韓国統監時代には統監旗を作ったことをはじめ、新調の統監服に勲章をぶら下げて大威張りで式に出席した。

しかし、虚飾を好み、稚気愛すべき伊藤に欲はなく、彼の政敵であった尾崎行雄も「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう」と評した。

伊藤博文は、明治時代の代表的な藩閥政治家で、近代日本における立憲政治実現の功労者だが、今の官僚主義の基を作った政治家でもある。元老中では国際通をもって自認し、よく国際情勢を顧慮した慎重な対応策を選ぶことにつとめた。

企業においては、いくらボトムアップと言っても、最終的には経営者の責任になるのはやむを得ないことであり、当然のことながら最終決断は経営者が下す。考え方として、社員のためを思った施策でなければいけないということだ。


伊藤博文の本
  帝国議会資料 上卷 (明治百年史叢書)、下
  伊藤博文関係文書 第1巻
  伊藤博文 近代国家を創り上げた宰相 PHP文庫
  伊藤博文―維新と文明開化 (学研まんが人物日本史 明治時代)
  伊藤博文の情報戦略―藩閥政治家たちの攻防 (中公新書)

伊藤博文の情報戦略―藩閥政治家たちの攻防 (中公新書)伊藤博文 近代国家を創り上げた宰相 PHP文庫