修己治人の学・経世の学

吉田松陰

きょうは松下村塾を開塾した思想家 吉田松陰(よしだ しょういん、幼名:虎之助、本名:矩方 のりかた)の誕生日だ。
1830(天保元)年生誕〜1859(安政6)年逝去(29歳)。

長門国萩松本村団子岩(現 山口県萩市椿東椎原)に禄高26石の下級藩士 杉百合之助常道の二男として生まれた。5歳のとき代々山鹿流兵学師範を務めた吉田家を継ぎ大助賢良の養子となった。8歳で藩校「明倫館」に出勤、教授見習となった。

このころ松陰は、風采にこだわらず物に動じない気性であり、いつも書物をふところにしていた。聡明、かつ勤勉で早くも9歳で『武教全書』を藩主の前で講じた。12歳のとき「松下村塾」をおこした叔父玉木文之進から指導を受けた。玉木からは5歳のときすでに孟子の講説を受けていた。
家学の後見を務めた玉木の学問は「自ら実践する」ことを主としており、その彼から農耕を共にする間に、「学問は社会や国家に有用なものでなければならない」ことを教えこまれた。1845(弘化2)年15歳のとき長沼流兵学を山田亦介に学び、飯田伊之助から西洋陣法を学び、世界の大勢に開眼することとなった。

17歳で山鹿流軍学の独立師範となり、玉木の家学後見は外された。20歳のとき山鹿流軍学の研究と称し西遊中、平戸から長崎へ行ったが、兵学よりむしろ政治学に傾注することとなり、世界の大勢を実見しようとの思いが募った。

このころ英・仏・米各国の軍艦がしばしば来航しており、海防論がさかんに叫ばれ、松陰も藩命により藩領海岸を巡視したり軍学書を著して意見の具申を行っていた。藩主に山鹿流兵学の皆伝を授けた後、さらに兵学研究のため藩主の参観に随行し、佐久間象山らについて洋学などを学んだ。

1851(嘉永4)年21歳の時、相房両国に旅行、無断のうえ通行手形無しで東北地方へ出かけ、水戸で会沢正志斎、会津で日新館の見学をはじめ、東北の鉱山の様子などを見学。各地を見学し、翌年江戸に帰った。

脱藩の罪で、士籍・世禄を剥奪され閉居を命じられた。このころから経験をふまえて日本の改革に情熱を注ぐようになり、水戸学派の人々の影響を受け、日本の歴史にも研究の目を向けた。同年御家人召放ち(解任)となった。

翌年萩を発し諸国遊歴に出かけた。大和で森田節斎らに会い啓発を受けた。江戸に到着し、米国のペリーの率いる艦隊の浦賀来航を聞き、1853(嘉永6)年 艦隊を見て外国留学の意志を固めた。また露艦が長崎に来航したことを聞いて象山と計り海外渡航を志し長崎に出かけたが、すでに退去していたため果たされなかった。

その後、京都に出て梁川星巌梅田雲浜らと交流した。翌1854(安政元)年、ぺリーが浦賀に再来航し、下田・箱館が開港しているが、海外情勢を知りたい一念から下田に行き、米艦に密航を訴え乗り組もうとしたが失敗、幕府に自首した。江戸の獄から萩の野山獄へ移されたが免獄となった。のち杉家へ幽閉禁錮となった。

松陰は獄中で孟子を講じ(『講孟餘話』1855)、幽室において近親の子弟に『武教全書』を講じた。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾「松下村塾」を引き受けて主宰者となった。門人の増加のため、1857(安政4)年27歳のとき藩の許可をえて松下村塾を拡張した。

木戸孝允高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山県有朋吉田稔麿前原一誠など維新の指導者となる門人たちの育成に当たっては、詩文を排して兵学儒学を説いた。もっぱら個人の名利のための学問や顧問の学を否定し、修己治人の学・経世の学を説いた。

当時中国では英仏両国に敗れ天津条約締結の屈辱をなめているが、日本では米国総領事ハリスが着任、1858(安政5)年井伊直弼大老が勅許なく日米通商条約の調印を結んだ。松陰はこれらの幕府の外交政策を激しく非難し、老中 間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を幽閉、再び野山獄囚とした。

安政の大獄」が始まると、1859(安政6)年、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命令した。幕府の長州藩糾弾を恐れる藩の首脳部の態度の変化によるものであり、憤激した松陰は絶食するに至った。しかし門人の離門も多くなり孤立した。

松陰は、老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、『留魂録』を残して、1859(安政6)年10月27日正午以前、江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処された。享年29歳。

吉田松陰は、一言でいえば明治維新に関わった指導者を多く輩出した教育者ということになるのだろうが、その教育は実学が主で「世の中のためになる学問」を教えている。それに加えて、協力してチームで物事を行うことを教えたのではないか。また考え方は純粋で、非常な行動家であり、それが自らの命を縮めることになった。

企業においても、チームで物事に取り組めば、大きな成果が上げられることは確かだが、それが難しいのは、やはり、リーダーの素質を持った人がいない場合が多い。またリーダーの素質がある人は、他の人をリーダーとして盛り立てることもできる人である。


吉田松陰のことば
  「大和魂は良薬に及ばず」
  「かくすれば かくなるものと 知りながら 已(や)むに已まれぬ 大和魂
  「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」


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吉田松陰の本
  講孟箚記(上) (講談社学術文庫)、下
  留魂録 (現代人の古典シリーズ 33)
  吉田松陰書簡集 (岩波文庫 青 21-2)
  吉田松陰―松下村塾の指導者 (講談社 火の鳥伝記文庫)
  松下村塾と吉田松陰―維新史を走った若者たち
松下村塾と吉田松陰―維新史を走った若者たち吉田松陰―松下村塾の指導者 (講談社 火の鳥伝記文庫)講孟箚記(上) (講談社学術文庫)