創造研究と創造教育

加藤与五郎

きょうはフェライトを発明した日本のエジソン 加藤与五郎(かとう よごろう)の誕生日だ。
1872(明治5)年生誕〜1967(昭和42)年逝去(95歳)。

三河野田村(現 刈谷市野田町)に農業 加藤惣吉の長男として生まれる。野田小学校のとき妹 とくが生まれるが、9歳の時 母 こうは34歳でチフスにて亡くなった。与五郎もチフスにかかり苦しんだ。11歳の時、新しく母 たかを迎えた。

1887(明治20)年15歳の時、小学校教師検定試験に合格し、鶴が崎(現 碧南市)小学校授業学心得(教師)となった。
翌年、高等小学校入学試験に合格し入学。1890(明治23)年 碧海郡立高等小学校(後の亀城高等小学校)を卒業。
1892(明治25)年 京都の同志社ハリス理化学校大学部第二種化学科に入学。1895(明治28)年 卒業。熊本の英学校の教師となった。その後、仙台市東北学院の数学・物理・化学の教師となった。

1899(明治32)年27歳の時、京都帝国大学に入学。
翌1900(明治33)年28歳で福島県相馬市の菊池トラ22歳と結婚した。

1901(明治34)年29歳の時 アメリカのA・A・ノイス教授を京都で知り、1903(明治36)年 京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業後、渡米してマサチューセッツ工業大学(MIT)ノイス教授の助手となり、電気化学を研究した。ここでW・D・クーリッジと知り合った。

1905(明治38)年33歳の時 米国より帰国。東京高等工業学校の嘱託となった。1906(明治39)年には教授になった。この年、父 惣吉死去。
911(明治44)年39歳の時 コロイド化学研究にて理学博士の学位を受けた。

1912(大正元)年40歳の時 東京高等工業学校電気化学科科長となった。
1929(昭和4)年 東京高工は東京工業大学に昇格。同大学電気化学科主任教授に任命された。この頃から武井武と共にフェライトの研究を開始した。

以後300余りの特許を取得したが、中でも強磁性酸化鉄フェライトは、1930(昭和5)年58歳の東京工業大学在職中、武井武教授との共同研究により発明、全世界に大きな影響を与え、エレクトロニクス分野で世界三大発明の一つと言われた。

1939(昭和14)年67歳の時 フェライトの発明で得た特許料を大学に寄付し、これにより東工大に「資源化学研究所」が付置され、初代所長となった。
1942(昭和17)年70歳で東京工業大学を定年退官。

1943(昭和18)年 「財団法人加藤科学振興会」を設立した。 1960(昭和35)年88歳の時 「創造科学研究所」を軽井沢に創立した。1964(昭和39)年 日本大学顧問教授となった。同志社大学名誉文化博士の称号を受けた。
1967(昭和42)年 8月13日午後4時、熱海の自宅にて永眠。

与五郎は、つねに独創的研究の重要性を唱え、「フェライトの父」、「日本のエジソン」と仰がれている。すばらしい科学者であるとともに、すばらしい教育者でもあり、日本における創造研究と創造教育の先駆者だった。

加藤与五郎の驚くべき行動力の源は、「欧米に立ち遅れた日本の産業を、創造に基づく工業で学術および応用において世界のリーダーとしたい」という高い目標、「発明を工業化して社会に役立てる」という大きな使命感、「進歩則創造」という強い信念によるものであった。

企業においても、高い目標、創造力、使命感を持ち、たゆまない努力で継続したなら、必ず大きな成果を上げることができるはずだ。できないのは、途中であきらめるからだ。


加藤与五郎のことば
  「創造は最後は直観の形で得られる。
   そして こういう直観を得るには、集中力の訓練が一番である。
   哲学者カントは、毎日自宅の窓から木を見つめて集中力を練ったのだ」
  「創造は清い心から生まれる」
  「フェライトには宇宙の森羅万象が含まれている」


加藤与五郎に関する本創造する人になる―加藤与五郎の事跡に学ぶ
  創造する人になる―加藤与五郎の事跡に学ぶ
  フェライト (電子材料シリーズ)