畏敬を以て人に頼られる

津田仙

きょうは農学者であり教育者 津田仙(つだ せん)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1908(明治41)年逝去(70歳)。

下総国佐倉藩(現 千葉県佐倉市)の家臣 小島善右衛門良親の第8子として生まれる。藩黌(はんこう:藩の学校)「東西塾」で学を修め、武芸百般の修練には殊の他精進した。

折しも世は幕末激動の時代、「黒船来」の叫びは朝野(ちょうや:世間)を震憾させ、20歳の青年武士 津田仙は雄心勃々(ゆうしんぼつぼつ:勇壮な心が沸き起こる)、「須らく洋学を研究すべし一日遅ければ一日損ありと乃ち江戸に出で百事を拠って洋学に志す」こととなった。
1861(文久元)年24歳の時、旗本 津田家の養子(妻 初子)となり、幕府外国方奉行通弁役仕官。そして1867(慶応3)年30歳のとき幕府遣米使節の一員として渡米した。ここで津田は活眼した。

アメリカ社会は女性も含め身分差別がないこと、農業が重んじられ農民が豊かな生活を享受していることに感銘。日本は、因襲(いんしゅう:古い風習)にしばられ、農民の地位が低いことを痛感した。「農を以て人生必須の事業となす」ことを思い定めた初心はこの経験にあった。帰国後、彼は新潟奉行を最後に野に下った。

そして新時代の象徴で都下の随一の洋風旅館「築地ホテル」の理事になった。その後、新設の「北海道開拓使」嘱託となり、青山の「開拓使農事試験場」で農事研究に携わる一方、麻布本村町で新農業経営に乗り出し、西洋野菜を栽培した。

折しも1873(明治6)年36歳の時、ウィーン万国博覧会派遣代表団の農芸調査部門担当者として渡欧、そこでの経験が津田の人生を決定した。

ウィーンで津田が見たものは「キリスト教」だった。350余カ国語の聖書にも驚嘆したが、何よりも彼の心を動かしたものは生活の中に受肉化されたキリスト教の姿だった。この経験があって、帰国後宣教師ソーパーとの出会いとなった。

1873(明治6)年、アメリカ・メソジスト監督教会派遣初代宣教師5人が来日、東京担当のジュリアス・ソーパ一は、まず津田仙を訪ねた。米国留学中の津田の次女梅子がソーパーの友人宅に寄宿していた関係であった。
ソーパーの日本伝道は津田邸から始まり、その感化により1874(明治7)年津田夫妻はキリスト教徒となった。メソジスト教会日本伝道初の受洗者だった。

青山学院の源流のひとつ「耕教学舎」がソーパーによって築地に創立されたのが1878(明治11)年だったが、津田はこの創立当初からその後の経営に至るまで終始ソーパーを助けた。耕教学舎という校名は、津田の命名

やがて耕教学舎が発展して「東京英学校」となり、生徒が増えて収容し切れなくなった時、津田は麻布新堀町に自ら経営する「学農社」の一部を教室に提供した。

これより先、ソ−パ−来日の翌1874(明治7)年 米国メソジスト監督教会派遣女性宣教師第1号ドーラ・E・スクーンメーカーが来日、ソーパーと津田の全面的協力を得て麻布新堀町に「女子小学校」を開校。最初の教室は津田の斡旋による津田家隣家の岡田邸だった。

女子教育など全く人々の関心にのぼらない時代、しかもヤソ教の学校とあっては、「生徒を募らんとて彼方此方と勧めたけど、女に教育など、と笑い居りて応ずる者なければ、余が妻、妻の友、わが娘などを駆り集め僅か5人の生徒にて開校」(津田仙 談)という有様。

これでは余りに少ないので、女子小学校とはいうものの津田の息子2人も入学した。やがて岡田邸は売却され、まもなく津田の手配で近隣の薬師堂を教室とした。一年後、再び津田の斡旋により三田北寺町大聖院の一隅を借受け、「救世学校」として再出発した。

更に1877(明治10)年 築地外国人居留地内に「海岸女学校」として開校した。
1883(明治16)年 前述の東京英学校と横浜の美会神学校が合同して、青山の新校地に「東京英和学校」が開学した。

津田は青山の土地選定から購入に至る経緯のすべてにかかわった。学校は1894(明治27)年「青山学院」となるが、津田はソーパーと共にこれらの全過程を支えたばかりでなく、初期の青山学院の基礎づくり事業の殆どに中心的役割を果した。

ウィーン万博出張中、津田は当時の科学的農芸理論の世界的権威ダ二工ル・ホイブレンクから講義と実習の指導をうけた。その成果が帰国後出版した『農業三事』である。欧米流近代的農業書の稀少な時代、この書は一躍洛陽の紙価を高めた。

1876(明治9)年39歳の時、農業近代化のための人材育成をめざし、自邸内に「学農社」を創設した。クラークの札幌農学校に先立つこと半年、我が国の近代的農業学校の嚆矢(こうし:物事の起こり)であった。
その教育の中心は農業理論や技術だったが、津田は一般教養を重視し多彩なカリキュラムを用意し、その教育の指導原理にキリスト教を据えた。

津田は日本近代農業の先駆者であり、『農業雑誌』を始め農業関係著・訳書を出版し、農業改良を数多く手がけた。農業の近代化こそ彼の畢生の事業であったが、青山学院はじめ、同志社、普連土女学校、そして東京盲唖学院など、明治初期のキリスト教主義学校創立に重要な役割を果した。

津田は明治初期の代表的キリスト者として宣教に啓蒙活動に大きな足跡を残した。1878(明治11)年 第一回全国基督教徒大親睦会に津田は推されて議長をつとめるが、これは全国的協力活動の嚆矢であり、明治キリスト教史上の一大イベントであった。彼は敬けんなキリスト教徒で、同志社創始者 新島襄、東京帝大教授 中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。

また、福沢諭吉中村正直など明治期の知識人を網羅した哲蒙的思想集団「明六社」の同人にも津田は名を連ね、言論活動をしていた。
飲酒・喫煙の害を社会に訴えた最初の人で、禁酒雑誌「日の丸」を発行した。

悪名高き足尾銅山鉱毒事件では、田中正造を助けて終始農民救済運動に奔走した。弱者への同情心厚く、人一倍正義感の強いキリスト者として、また農業問題の専門家としての津田は、渡良瀬川流域農民の惨状を座視できなかった。

1908(明治41)年4月24日、一人の老人が品川駅から横須賀線に乗った。汽車は終点の横須賀に着き、乗客はすべて降りたが、痩身白髪の老人はいつまでも列車の片隅で寝たままであった。その老人こそ津田仙、70歳の最期の姿だった。

津田は鎌倉の別荘への帰途で、脳溢血だった。新聞は「眠るが如き大往生」と評した。日本メソジスト教会 本多庸一は「津田君は多数の農民に同情をもつ『大平民』である。罪ある人、不道徳の人に同情をもつ平民、キリスト教的平民、天下万世の為に身を犠牲に供したる基督にある『大平民』である」と葬儀の辞をおくった。

津田は豪方磊落にして義侠肌、直情径行天真爛漫、巨躯を駆った行動力、情深く涙もろく、畏敬を以て人に頼られる、終生在野の『大平民』であった。
津田塾大学を創設した津田梅子(12月8日参照)は津田仙の2女。

津田仙は、いろんな分野で活躍したが、特に農業と教育の分野においては、それぞれにおいて日本の先駆者である。ベースになるのは、このままではいけないという反骨精神と海外視察いおよびそれを実現するための行動力である。

企業においても、すすんだ企業の視察や改革の精神に加え、行動力がどうしても必要である。いくら見ても、いくら考えても、実践に向けて一歩を踏み出さなければ成果はありえない。  


津田仙の本津田仙と朝鮮―朝鮮キリスト教受容と新農業政策
  津田仙―明治の基督者 (伝記叢書 (341))
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