私一人でやる

大倉喜八郎

きょうは大倉財閥を創設した 大倉喜八郎(おおくら きはちろう)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1928(昭和3)年逝去(90歳)。

越後国新発田(現 新潟県新発田市)の名主 大倉千之助の三男に生まれる。17歳の時、故郷 新発田から江戸へ出、かつお節店員、乾物店主を経て1867(慶応3)年30歳の時、幕末の不穏な空気に満ちた時代にタイミングよく、神田和泉橋通に鉄砲店「大倉屋」を開業した。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は官軍、幕府軍の双方から舞い込んだ。官軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、彰義隊に連行された。官軍に鉄砲を売っていたからだ。生きて帰れないと観念した大倉だが、「官軍は現金払いなので売ったまで」と商売の理を説き、九死に一生を得た。こうした体験が大倉を官軍御用達にしていった。
大倉が津軽藩の注文に応じて大量の鉄砲・火薬を海路、津軽に輸送したのもこのころだった。当時、奥州の諸藩はほとんどが佐幕派であり、津軽藩のみが勤王派であった。このため津軽藩へ武器を輸送することは危険この上なかったが、大倉はこの注文を平然と引き受け、横浜から船を仕立て、小銃2500挺とそれに見合った弾薬を積んで海路はるばると津軽へ輸送した。

当時の津軽藩は財政が窮乏しており、談合の結果、米で支払うことにしたのだが、商売としては不利な条件を大倉は承知した。
その頃の大倉には津軽藩の注文に応じるだけの資力がなかったが、有り金はもちろん家財道具一切を金に換えてオランダ商人から小銃と弾薬を仕入れ対応した。

津軽藩はこの武器・弾薬によって、野辺地戦争、函館戦争に参戦し、勤王の実をあげ、大倉は義侠的な行為と賞讃された。この時点で幕府の崩壊と、王政復古の時代到来を読みきった大倉の洞察力も並のものではなかった。

明治維新後、1871(明治4)年 日本初の洋服仕立て店を開業したが、大倉が目指したのは外国貿易だった。「まずは欧米の商業を学ぼう」、大倉は1872(明治5)年35歳の時、米国から欧州を一年かけて回る旅に出た。

ちょうどこの半年前、明治政府は内大臣岩倉具視を全権大使とする「岩倉使節団」を欧米に派遣しており、大倉はロンドンやローマに滞在した際、使節団の大久保利通木戸孝允伊藤博文らと殖産興業を話し合う機会を得た。
この出会いが大倉の運命を大きく変えた。

帰国後、1873(明治6)年36歳の時 東京銀座に「大倉組商会」を設立、1874(明治7)年にロンドンに支店を設け、外国貿易の尖端を切った。1877(明治10)年40歳の時、西南戦争で陸軍御用になった。1878(明治11)年 渋沢栄一らと「東京商法会議所」を設置した。
貿易に乗り出した大倉を飛躍させたのは、建設・土木業への進出であった。

きっかけは仙台市に建設する洋風刑務所 宮城集冶監。建設業者がひしめく中で、内務卿の大久保は大倉組を指名した。大倉組には建設・土木の実績がほとんどなく、藩閥とも無関係で、異例の指名だったが、欧米で知り合い、台湾出兵西南戦争では命懸けで軍の御用を務めた大倉に、大久保らの信頼が高まっていた。その後も大倉には、鹿鳴館建設などの事業が舞い込んだ。

文明開化の波が押し寄せる中、大倉は1887(明治20)年50歳の時、巨大ゼネコン(総合建設会社)を創設した。藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併した、『有限責任 日本土木会社』だ。資本力、技術力ともに群を抜き、帝国ホテル、東京電灯(現 東京電力)、日本銀行歌舞伎座、碓氷トンネルなど、後世に残る建造物を請け負った。

東京電灯は1886(明治19)年、帝国ホテルは1887(明治20)年に創設している。しかし日本土木会社は5年半で解散を余儀なくされ、建設部門の大倉土木組(現 大成建設)と、商業、工業部門の大倉組(1998平成10年に大倉商事として倒産)に分離した。
1898(明治31)年61歳の時 大倉商業学校(現 東京経済大学)を開校した。

大倉組の実力がいかんなく発揮されたのは戦争だった。軍需品の調達、輸送はもちろん、日露戦争では塹壕や架橋用の製材工場を鴨緑江流域に移設し、弾丸の飛び交う中で操業した。三菱・三井のような財閥も戦争の無理難題に二の足を踏み、実力があり危険な仕事にも応じられるのは大倉組しかなかった。

日清、日露の戦争は、大倉に膨大な利益をもたらした。これを元手に数え切れないほどの企業を興した。特に日露戦争後は、大日本麦酒(現 アサヒビール)、帝国劇場、東海紙料(現 東海パルプ)、日本化学工業、帝国製麻(現 帝国繊維)、日本製靴(現 リーガルコーポレーション)、日清製油、札幌麦酒(現 サッポロビール)などの設立に関わった。

あくなき事業意欲は、中国大陸に広がっていった。「満州(現 中国東北区)を経済的に経営するのが戦死者への供養だ」、日露戦争中、旅順攻撃の前線を慰問した大倉は大陸進出を決意、それが国策に合致すると見た外相の小村寿太郎は、「大いにやってください。骨は私が拾ってあげますから」と激励した。

大陸で最も力を入れたのは本渓湖の製鉄所と炭鉱開発だった。すでに日露戦争中に大倉組の社員が日本軍に同行して資源調査し、有望との結果が出ていた。その判断に、大倉は現地を見ないで1910(明治43)年73歳の時 南満州に「本渓湖煤鉄公司」を設立した。

一度任せたら最後まで信じる。それだけ人物を見抜く目には自信があった。1915(大正4)年、米国人 フランク・ロイド・ライトに帝国ホテルの設計を依頼した時も周囲の大反対にあったが、一切口を挟まなかった。

注目すべきは日中合弁にしたことで、大倉いわく、「商売は双方の利益をはかるようでなければ、幾久しく円満な取引は継続しない」。
奉天(現 瀋陽)の軍閥張作霖とは様々な合弁事業を交渉した。1925(大正14)年 満州を訪れた大倉に、張は白馬隊二百騎を護衛に付け「国賓並み」に遇した。合弁が大きな利益をもたらしたからだ。

中国と共存共栄を目指す大倉は、しばしば政府と衝突した。辛亥革命で成立した中華民国臨時政府が、大倉に資金提供を求めた時、革命政権を支援すべきだという大倉に、政府は「冒険的すぎる」と煮え切らなかった。

私一人でやる」憤然と席を立った大倉は、旧友の安田銀行頭取 安田善次郎から借金し、中国側に貸し付けた。大倉の心意気が通じた中華民国政府は2年も経たない内に全額返済した。

大倉が手を染めなかったのは銀行業で、大倉は「借金をして仕事をしながら、その一方で金貸しをすることができるか。おれは銀行など真っ平だ」と言っている。高橋是清は「借りた金ゆえ事業にも熱が入りやり方も堅実にならざるを得ない。非常な見識だ」と称えた。

1917(大正6)年80歳の時 財団法人「大倉集古館」を設立した。1927(昭和2)年 宮内省に隠居届けを出し、家督を長男 喜七郎に譲った。1928(昭和3)年4月22日 大腸がんのため永眠。享年90歳。

革命は多くの英雄を産み出すが、同時にその英雄を支えながら財をなす大実業家をも育てる。大倉財閥をつくりあげた大倉喜八郎も、明治維新という日本史上最大規模の革命が産み落とした事業家の一人だ。
「鯰−」の著者 大倉雄二は、喜八郎が82歳の時に生まれた子供とのことで、喜八郎の生命力には驚嘆させられる。

大倉喜八郎は、幕末のどさくさに紛れて、巨万の富を蓄え、明治維新後は、新政府と癒着しながら事業を拡大し、一大財閥を築いた。大倉財閥を他の財閥――三井、三菱、住友などの財閥と比較すると、そこには強烈な個性と、政商的な行動が目につく。オーナー社長と言えども80歳まで現役でその座に君臨すれば、次の社長は育たず、会社自体が潰れてしまうという、教訓を与えてくれた。

企業人に限らず、これからの不況の下で社会に強く生きようとする人は、喜八郎のように、たくましく生きなければいけない。
新しいこと、人のやらない事に挑む冒険心。それを裏打ちする細心の商人魂。大倉の生涯には現代の日本人が忘れたものがある。

●「大樹」か「なまず」か●
大倉喜八郎ほど評価の分かれる人物も珍しい。「木にたとえれば四千年の大樹」、「稀に見る士魂の持ち主」と絶賛される一方で、「グロテスクな鯰(なまず)」と酷評されている。

「政商」「死の商人」と大倉を攻撃したのは、当時新しく注目されだした社会主義者だった。材料は日清戦争時の「石ころ缶詰事件」。これは戦地に送られた牛肉の缶詰に、石が詰まっていた一件だ。

缶詰を扱ったのは辺見山陽堂という会社で、大倉とは関係ない。しかし、その頃の大衆の情緒は、日本軍の圧倒的大勝の報に湧き上がり国民感情が高まっていて、どうしても勧善懲悪で終わらなければ我慢できない江戸時代そのものだった。

善玉を強調するためには徹底的な悪玉が必要だった。善玉の皇軍将兵を賛えるために、石ころ缶詰の小さな風説がとりあげられたのだ。つまり悪玉は大倉でなくても誰でもよかったのである。木下尚江の反戦小説『火の柱』では、大倉をモデルにした悪徳商人が犯人になっており、大倉の死後も、それは事実として人びとに信じられた。

大倉は、慈善事業などに巨額の寄付を続けた。例えば、1911(明治44)年には、社会福祉法人 恩賜財団済生会に100万円を供した。現在の100億円にも相当する額だ。札幌の大倉山シャンツェにも、秩父宮の要請で建造費を出した。

50万円の寄付で東京に開校した「大倉商業学校」もそのひとつ。学校設立に際し大倉は、「金を金庫に封じて子孫に残すも、いたずらに怠慢の助とならん。公益に供用して商業を振るふの資となさん」と語った。儲けた金は子孫に残さず、国家社会に投じようという考えであった。

また大倉は東洋美術品の収集家としても有名である。
中国で義和団事件が起きた時、中国美術品を満載したロシア船が長崎に入港し、日本で買い手が見つからなければ米国に運ぶという。文化財の散逸を恐れた大倉はすべて買い取った。財団法人「大倉集古館」を設立、集めた美術品を寄付し、日本初の私設美術館として公開もした。

美術以外にも芝居、書道、邦楽など多趣味だったが、「鶴彦」の号を持つ狂歌は素人離れしていた。『狂歌・鶴彦集』『鶴乃とも』などに掲載された歌は約2千首以上に上る。
「感涙もうれし涙とふりかはり 踊れや踊れ雀百まで」
没する二週間前に詠んだ最期の歌だ。

●大倉と渋沢栄一●
大倉が17歳のとき江戸で一旗あげる決心を固めたそのきっかけは、塾の学友の父が不合理な処罰を受けた事件だった。

その父は、藩の目付役に路上で出会ったとき雨で道がぬかるんでいたので、下駄を履いたまま土下座した。それが無礼と咎められ、閉門謹慎を命ぜられた。武士と平民の差別に憤慨した大倉は江戸に出て大商人となり見返してやろうと決意した。
同じ頃、渋沢栄一も代官の横暴に激怒して、尊王攘夷に身を投じた。

大倉は渋沢とウマが合ったという。育った境遇が似ているうえ、二人とも西欧を実地に見ていた。「日本の実業軽視の風をなんとか改めなければならない」という渋沢の意見に大倉も大賛成だった。

1878(明治11)年、当時大蔵卿の大隈重信が、「日本にも商人が集会して相談する機関をつくってはどうか」と提案した時、渋沢は直ちに大倉と図り、二人が発起人となって「東京商法会議所」が設立された。
また、1887(明治20)年には大倉と渋沢が組んで、帝国ホテル、札幌ビールを創業した。 



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