敢えてここに訴願する

石橋湛山

きょうは反骨の言論人で第55代首相 石橋湛山(いしばし たんざん)の誕生日だ。
1884(明治17)年生誕〜1973(昭和48)年逝去(88歳)。

東京都麻布(現 港区)に日蓮宗の僧侶 杉田湛誓・きん の長男として生まれる。父 湛誓は日蓮宗の僧籍にあり、宗教界の慣習により母の姓 石橋を名乗った。湛山は日蓮宗の僧侶として得度してからの名前であり、それ以前は省三と言った。

小学から中学にかけて、僧侶 望月日謙(のち立正大学学長)のもとに送られて、山梨県の寺で修行生活を送った。
父母と離れたこの時期の経験は彼に独立自尊、自力本願の精神を育むとともに、日蓮主義という湛山の精神的支柱の形成にも大きな影響を受けた。
また山梨県立尋常中学の大島正健校長(クラークの弟子)にアメリカ民主主義と個人主義を学び、1904(明治37)年 早稲田大学文学部に入学すると、哲学を学んだ。在学中わが国にプラグマティズムをもたらした田中王堂に出会った。

早大文学部哲学科を首席で卒業し、宗教研究科に進んだ。
島村抱月の紹介で『東京毎日新聞社』に入社、兵役を経て、1911(明治44)年27歳の時、三浦銕太郎の同窓生である田中穂積の紹介で『東洋経済新報社』に入社し『東洋時論』の担当をした。

哲学や宗教を学んで、ジャーナリストになるというのは畑違いのようだが、早稲田という学校は教員になるか、ジャーナリストになるかどちらかで、「ほかに出ようがない」そうだ。
『東洋時論』が廃刊になってしまったので『東洋経済新報』に合流することになった。そこで、しぜんと経済を勉強するようになった。

当時の『東洋経済』には、片山潜がいたことから、片山の影響つまりマルクス主義の影響があったのではないか、と考えられるが、そうでもなかったようで、むしろ自由主義的風潮の方がよほど強かった。自由主義的雰囲気の中に片山も存在したということだ。

石橋はラディカル・リベラリストの道を歩んだ。1919(大正8)年35歳の時、「普通選挙期成同盟会」に参加、普選示威運動実行委員となった。空想とも言える満蒙放棄論を唱え、極端な軍縮をとなえた。石橋自身は、「ラジカルでなければ軍縮は出来ない」と言う。

署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたちにも、同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の筆致は常に、冷静な分析に基づき、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する、といったものであったため、同誌は当局から常にマークされながらも廃刊処分を受けることはなかった。

1924(大正13)年40歳の時、東洋経済新報 第五代主幹に就任した。昭和に入り、濱口内閣の金解禁政策に反対し、日中戦争のさなかにも、財政上の制約を掛けるために増税をし、軍事費を一定水準で抑えるべきだという主張をした。
戦前のジャーナリストで、ここまで主張が一貫している人物は、石橋を置いてほかにいない。1941(昭和16)年57歳で、東洋経済新報社の社長に就任した。

太平洋戦争の敗戦を、編集部が疎開していた秋田県の横手で知った。すぐに帰京し、「更正日本の新路」という連載を書くが、この連載は当時横溢(おういつ:気力などがあふれるほど盛んなこと)していた日本の経済的破綻論に水を掛け、世論を沈静化させる働きをした。

石橋の幅広い評論活動は実に精力的で、積極財政論、反戦反軍思想、小日本主義思想をおのれの立場とし"野に石橋あり"の声は常に高いものだった。ジャーナリストとしても、またエコノミストとしても卓抜な存在だった。早稲田大学はその業績に対して1957(昭和32)年に第1号の名誉博士の学位を授与し讃えた。

1945(昭和20)年11月、日本自由党に顧問として入党。入党した理由は、「一番 何も無さそうだから」。社会党だと社会主義という殻があって困るが、自由党はなんだか非常に漠然としていて良かった、と回想する。

翌年4月の総選挙では東京から出馬し落選。5月には、ノーバッジで第一次吉田内閣の大蔵大臣、物価庁長官、安本長官(経済安定本部総務長官)。「石橋財政」とは、デフレ抑制のためのインフレ政策(この政策のために石橋は「インフレ坊主」と陰口をたたかれた)と、一般に傾斜生産といわれる枢軸産業(具体的には石炭産業)への特殊促進、そして復興金融公庫の活用が特徴としてあげられる。

石橋が突如、公職追放を受けることになったのは、1947(昭和22)年5月のことで青天の霹靂であった(この前月に静岡から衆院選に出馬、当選)。以前から噂はあったが、石橋自身も周囲も、戦前戦中の石橋の経歴からしてまずありえないと思っていた。

ところがある日、石橋が登庁すると、渡辺武財務官がやってきて、たった今パージが決定したという。誰の差し金かは今もってわからないが、石橋はパージに対する弁駁書(べんばくしょ:他人の説の誤りを突いて論じ、攻撃する書類)を書いた。

書き上げるのに一ヶ月を要するほど、石橋に言わせれば「理由にならぬ理由」で追放を喰らった。石橋は、弁駁書の結びにこう述べた。
「私は今、私一個の利益のために弁駁を行うのではない。私は私一個の利益のために、強いて今、公職追放を免れたいとは少しも考えていない。ただ私はデモクラシーのために、デモクラシーの権威のために、敢えてここに訴願する次第である」

1951(昭和26)年67歳の時、追放解除された。ただちに自由党に復帰、鳩山一郎を支持し、吉田茂総裁反対グループの闘士として戦った。そのために1952(昭和27)年9月末には自由党を除名された。

内外の情勢と、三木武吉の談判によってこれは撤回されたが、その後も石橋は懲りずに吉田批判を続け、鳩山一郎内閣では通産相(蔵相を望んだが、一万田尚登が蔵相ポスト)に就任。保守合同に当っては自民党に入党した。

鳩山退陣後、自民党初の総裁選挙に出馬。岸信介石井光次郎三者で争った。この選挙は、熾烈であった。石橋派の選挙参謀 石田博英は、18しかない閣僚の椅子を担保に60枚の手形を切った。通産相の手形が5人に、農相の手形が8人に与えられた。大野伴睦も「幹事長か副総裁」の空手形を受け取った一人であった。

最終段階になって、石井・石橋間には二位・三位協定が成立。第一回投票において下位の者が、決選投票のときに上位のものに協力しようと言う協定である。また、石田博英は岸派の代議員たちを一人ずつホテルの外に誘い出し、石橋支持に口説き落とした。

総裁選挙決選投票では、石橋258票、岸251票。僅差で石橋の勝利であった。
発足した石橋内閣は、「五つの誓い」を発表し、中共との国交回復ということも石橋内閣の現実的政策の中に入っていた。また、「人気とりはしない」といい、人心収攬(じんしんしゅうらん:人の心をとらえて手中におさめること)をするような政策は採らない方針をあきらかにした。

ところが、石橋内閣はわずか九週間で潰(つい)える。石橋が肺炎にかかったためである。かつて濱口雄幸首相が発病してなお首相の座に留まっていたことを批判した石橋としては、その轍を踏む(てつをふむ:前人の犯した失敗を繰り返すたとえ)わけにはいかなかった。後継総裁は、岸信介

その後、病も癒え、政治活動を再開。1959(昭和34)年75歳の時には周恩来招請で訪中。岸が主導した日米安保条約改訂には批判的な態度をとるなど自民党ハト派の重鎮として活躍したが、1963(昭和38)年79歳の時の総選挙で落選し引退した。

1952(昭和27)年以降、立正大学学長を1968(昭和43)年84歳まで務め、同大学には現在「石橋湛山記念講堂」が建てられている。1970(昭和45)年、「石橋湛山全集」刊行開始(全15巻)。全集完結の翌年4月、脳梗塞のために死去。波乱に富む一生は「政治家以上に思想家」と専門家の間では総括されている。

石橋湛山は、組織によりかかってものを言うジャーナリストではなかった。政治家になってもその姿勢は変わらず、そのためにワンマン吉田茂支配下自由党から、一度ならず除名されている。権力に固執する人間が政治・経済の大家と呼ばれる傾向にあるが、彼は静かなる存在感をもって独り立っていた。

企業においても、経営者がいわゆる“イエスマン”を周囲に配置してしまうことが多く、社員もつい“イエスマン”になってしまいがちだ。しかし経営者も社員も、『自分』の意見を持つことの重要さを認識しなくてはいけない。方向性は同一でも意見は多様であるのが本当の姿だ。


石橋湛山のことば
  「政治家の私利心が第一に追求すべきものは、
   財産や私生活の楽しみではない。
   国民の間にわき上がる信頼であり、名声である」
  「今の政治家諸君をみて一番痛感するのは
   『自分』が欠けてているという点である」
  「政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、
   最もつまらないタイプは、自分の考えを持たない政治家だ」


石橋湛山の本
  改造は心から (石橋湛山著作集―文芸・社会評論)
  石橋湛山―湛山回想 (人間の記録 (47))
  石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)
  石橋湛山―自由主義の背骨 (丸善ライブラリー)
  日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること (講談社選書メチエ)

日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること (講談社選書メチエ)石橋湛山―湛山回想 (人間の記録 (47))