遠い世界に逃れようと  

熊谷守一

きょうは洋画家 熊谷守一(くまがい もりかず)の誕生日だ。
1880(明治13)年生誕〜1977(昭和52)年逝去
(97歳)。

岐阜県恵那郡付知村に裕福な商人の家の三男として生まれた。父 孫六郎は生糸商を営み、岐阜市の初代市長を務めた後、衆議院議員になった。
3歳で生母と離れ、父とともに二人の妾の住む「岐阜の家」で幼少年時代を過ごした。岐阜の家には異母兄弟が数人、妾の姉妹が何人か、それに女工が同居していたようだ。

生家に行けば、母が風呂桶の漏れを豆で詰め修理しながら、細々と暮らしている。岐阜の第二夫人は日髪、日化粧、自分専用の織り子を三人も雇っている。
その状況は子ども心にも「なんたることだろう」と思ったという。

中学3年で上京し画家をめざした。1900(明治33)年 東京美術学校(現 東京芸術大学)西洋画家選科へ入学。長原孝太郎、黒田清輝藤島武二らの指導をうけた。同期生に青木繁、和田三造、山下新太郎、児島虎次郎らがいた。
卒業後、1905(明治38)年25歳のとき 樺太調査隊に加わった。以後2年間北海の島々を廻り、各地の風光、地形の記録やスケッチなどをした。この時の作品はすべて関東大震災で焼失した。その後、郷里で山の木を切り出すアルバイトなどをした後、上京し、洋画の制作に取り組んだ。

1909(明治42)年29歳の時 第3回文展に「ローソク」を出品した。「夜中にじぃっとローソクの光で自分の顔を見つめていると、自分の顔もそう悪い顔ではないと思えた」と述べている。1915(大正4)年 第2回二科展に「女」を出品、以後、第29回展まで毎年出品した。1916(大正5)年 二科会会員となった。

1933(昭和8)年53歳の時 日動画廊で野間仁根と二人展を、藤田嗣治と野間仁根と日本画三人展を開いた。又、名古屋丸善において、熊谷守一新作毛筆画展を開いた。このころより再び日本画を描き始めた。1947(昭和22)年67歳のとき二紀会の創立に参加。1951(昭和26)年からは無所属作家として世俗から離れ、自由に制作を楽しみながら、単純明快な形と色で独自の様式を確立した。

1964(昭和39)年84歳の時 パリのダヴィット・エ・ガルニエ画廊主催で熊谷守一大個展が開かれ、好評を博した。1967(昭和42)年87歳の時 文化勲章受章者に内定したが、「これ以上、人が来るようになっては困る」と辞退した。1968(昭和43)年 画廊でギャルリー・ムカイ改称記念熊谷守一個展を開いた。NHK「この人と語る」に出演した。

1972(昭和47)年92歳の時 勲三等叙勲の内示があったが辞退した。1976(昭和51)年 岐阜県恵那郡付知町熊谷守一記念館が設立された。11月、洋画商展出品の「あげ羽蝶」が油絵の絶筆となった。

東京都豊島区の小さな家に住み続け、三十年間ほとんど外出せず、自宅の小さな庭に住む生き物たちを、徹底的に単純化して描いた。天性の自由人であり、自由と自分の時間を大切にし、独創的な絵を創りあげ、生涯一画家として美への情熱のみに命を懸けたその人柄は「画仙」「日本のゴッホ」「仙人」と呼ばれ、無欲で清貧なくらしから生み出された純粋な絵や書は、今なお多くの人の心を惹きつける輝きを放っている。

熊谷守一の作品には、心の安らぎを感じさせるが、幼い頃の生活を知った上で改めて見ると、何か寂しさのようなものを感じてしまう。どんな気持ちで描いたものか知る必要はないが、何処か遠い世界に逃れようとしている姿を想像してしまう。

企業においても、いろんな過去を背負った人がいるが、表には出さず頑張っているはずで、上司に限らず周囲の人は、理解し助け合っていくようにしたい。程度の差こそあれ、誰だって言いたくはないが理解してもらいたいことがあるものだ。


熊谷守一のことば
  「何も描いていない白ほど、きれいなものはありません。
   ところが人ってなさけないもので、ちょっとちょっかい出してみたがるんです。
   でも、どんなに逆立ちしたって、そりゃ白よりきれいに描けっこありません。
   色というものは、いろいろな意味で考え物です」


熊谷守一の作品
   
  春の日            白仔猫            つつじに揚羽蝶    


熊谷守一の本
  へたも絵のうち (平凡社ライブラリー)
  熊谷守一の猫
  無一物―熊谷守一の書
  蒼蝿
  熊谷守一―守一ののこしたもの
  もうひとりの熊谷守一―水墨・書・篆刻 他
  独楽―熊谷守一の世界
独楽―熊谷守一の世界もうひとりの熊谷守一―水墨・書・篆刻 他蒼蝿へたも絵のうち (平凡社ライブラリー)