意思を超えて多方面に  

我妻 栄

きょうは日本を代表する民法学者 我妻 栄(わがつま さかえ)の誕生日だ。
1897(明治30)年生誕〜1973(昭和48)年逝去(76歳)。

山形県米沢市鉄砲屋町に米沢中学校の英語教師我妻又次郎の長男として生まれた。米沢興譲館中学の級友に童話の浜田広介がいた。第一高等学校では岸信介と首席を争った。1920(大正9)年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。我妻の答案の出来が素晴らしく、東京帝大の恩師である鳩山秀夫が額に入れて保存したという伝説がある。

1923(大正12)年26歳のときドイツなど欧米に留学した。
帰国後、東京帝大法学部助教授となり、1927(昭和2)年30歳で教授になった。1945(昭和20)年48歳のとき戦後初めての東京帝国大学法学部長になり、南原繁総長の補佐役として大学改革に奮闘した。
「大学教授は、専門分野の体系的教科書を書くこと、その中の重要なテーマについて終生的研究をすることの二つの任務がある」というのが我妻の持論であり、生涯にわたってこれを実践した。
1946(昭和21)年49歳で司法法制審議会委員および貴族院議員となった。戦後の民法改正に際しては、中川善之助とともにその立役者となり、旧法の「家」の廃止、家族法民主化のために活躍し、学者の立場からの社会的発言も行った。

その後、日本学術会議会員、日本学士院会員、法務省特別顧問を経て、1957(昭和32)年60歳で東大停年退官し、東京大学名誉教授になり、「憲法問題研究会」を設立、戦後民主主義擁護の立場から数々の提言をした。
1961(昭和36)年64歳で法学博士、翌年 臨時司法制度調査会会長、1971(昭和46)年には「公害無過失賠償責任法案」「自然保護法案」作成のため大石環境庁長官の顧問となった。

また「60年安保」では、同級生だった岸首相の国会運営を批判して即時退陣を訴え、1971年には宮本康昭裁判官の再任拒否問題に関し、「裁判官の思想統制という疑念は避けがたい」とする文化人グループに加わり、最高裁に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られている。

「我妻民法」で知られる日本民法学界の最高峰であり、鋭い分析と綿密な構成で法解釈に新分野をひらき、独自の民法体系をつくりあげた。民法一筋に生き、また人並みすぐれた民法学者であったが、その活動領域は彼の意思を超えて多方面に及んでいる。

終生、故郷 米沢を愛し、師を敬い、友と語らい、しばしば講演に訪れた。1964(昭和39)年 文化勲章受賞を記念して、私財1600万円を投じて、独自の奨学組織「自頼財団」を興譲館高校に設立した。これは経済的に苦しい在学生に奨学金を月々与えるもので、現在までに約百人がその恩典に浴している。
趣味は多彩で、特に釣りを好んだ。

我妻 栄は、60年安保で元級友の岸信介を批判し政界から下ろしてしまうが、そこには同級生に対する親しみを越え、人としての正義を貫いている。それは考え方によれば、岸信介に対する愛情であったかもしれない。

企業においても、縁故や学閥、同部署などに加え、個人的な好き嫌いといった感情論があるが、その中において、いかに自分の正義感や持論を表現するかは難しいところだ。いろんな人の立場を理解した上で、最善の策をとる必要があり、感情論は控えた方が全体的・長期的にはうまくいく場合が多い。


我妻 栄の本
  民法〈1〉総則・物権法(2)(3)
  民法
  事務管理・不当利得・不法行為 (コンメンタール民法)
  近代法における 債権の優越的地位 (学術選書 (1))
  我妻栄先生の人と足跡―年齢別業績経歴一覧表
事務管理・不当利得・不法行為 (コンメンタール民法)民法民法〈1〉総則・物権法