運とかツキというのは   

朝永振一郎

きょうは原子物理学者 朝永振一郎(ともなが しんいちろう)の誕生日だ。
1906(明治39)年生誕〜1979(昭和54)年逝去(73歳)。

東京で哲学者 朝永三十郎の長男として4人兄弟の2番目に生まれた。振一郎は幼少の頃から体が弱く、学校も休みがちだった。小学校3年生のとき、雨戸の節穴から差し込む光によって、庭の景色が逆さになって障子に映し出されていることを発見し感動した。このしくみを節穴のあいた板と紙のスクリーンで再現し、自分だけの小さなシアターで外の景色を楽しんだ。

あるとき、虫メガネを拾った振一郎少年は、「秘密のシアターの節穴に差し込んでみよう。もっと大きく外の景色が映し出されるかもしれない」と思った。試してみたが、映し出された景色は、予想に反して小さくなっていた。しかし、驚いたことに、今までよりもずっと鮮明に映っていた。実は、虫メガネは凸レンズなので光を集める性質をもち、節穴だけより光が集まり、鮮明に景色が映し出されていた。
こうして実験に興味をもつようになった振一郎少年は、学校で教わるだけでなく、自分で考えて実験するようになった。彼は学校でガラス管の切れ端をもらい、それを溶かして自分でレンズをつくり、200倍以上の倍率の顕微鏡を作ったこともあった。
「自分で工夫し、それが思い通りになる」喜びは何にも替えがたいものだった。

さて、振一郎の父親が京都大学の教授となり一家で京都に移り住むことになった。旧制第三高等学校京都帝国大学理学部物理学科を湯川秀樹とともに同級生として卒業した。無給助手のとき講義にきた仁科芳雄に誘われ、1932(昭和7)年 理化学研究所に新設された仁科芳雄研究室に入り、「いま日本の大学でやっている物理など、もう古臭くてだめだ」と感じ取り、発見されたばかりの中性子陽電子や核力、宇宙線の理論を研究した。

1937(昭和12)年31歳のとき日独交換研究生としてドイツに留学し、ライプツィヒ大学ハイゼンベルク教授のもとで原子核理論を研究した。1939(昭和14)年、第二次世界大戦の勃発により帰国、その後は場の量子論の相対論的定式化を研究した。

1941(昭和16)年35歳で東京文理科大学教授となった。1943(昭和18)年37歳の時、超多時間理論を完成し、翌年これに基づいた繰り込み理論を発表した。この理論から水素原子の順位のずれや電子の異常磁気能率が定量的に説明できた。1948(昭和23)年42歳で 朝永=シュウィンガー理論を発表し、同年小谷正雄と共同で磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究を発表した。

1949(昭和24)年43歳の時にオッペンハイマーによってアメリカのプリンストン高等研究所に招かれた。同年、大学の改組により東京教育大学の教授、1956(昭和32)年50歳で学長になり定年まで務めた。その他 日本学術会議議長、仁科記念財団理事長、光学研究所長などを歴任した。原水爆の禁止や原子力の平和利用に熱意を示し、平和運動、国際交流に対して湯川秀樹らと協力して行動した。パグウォッシュ会議、科学者京都会議を開催した。

最大の業績としては超多時間理論と繰り込み理論だが、そのほかの業績として、量子力学の多体問題、集団運動の理論、中間子論、マグネトロンの発振機構の研究などがあり、素粒子論発展に指導的な役割を果たした。
繰り込み理論で1965(昭和40)年にノーベル物理学賞を受賞。

学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなり遊び人だったと伝えられている。教授となってからも東京大学の五月祭で、ドイツ語で落語を演じるなど洒落っ気が多かったようだ。酒豪、落語愛好家として知られている。

朝永振一郎博士は、仁科芳雄博士という偉大な師と、湯川秀樹というよきライバルに恵まれ、また量子力学など最先端のテーマにも巡り会っている。それは父親の転勤が無かったら、実現していなかったかもしれない。

業務においても、運・不運はやむをえないものだが、どんな状況においても、前向きにかつ謙虚な気持ちで努力を怠らなかったら、運とかツキというのは近寄ってくるものだ。あきらめずに、明るく元気に業務に励むようにしよう。


朝永振一郎の本
  朝永振一郎著作集 (1) 鳥獣戯画〜(12)
  物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)(下)
  科学者の自由な楽園 (岩波文庫)
  鏡の中の物理学 (講談社学術文庫)
  朝永振一郎博士 人とことば
  回想の朝永振一郎
  講義講演を聴く―朝永振一郎物理よもやま話より (本冊)
鏡の中の物理学 (講談社学術文庫)科学者の自由な楽園 (岩波文庫)物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)