時代を先取りした   

ゴッホ

きょうはオランダの「炎の画家」 ビンセント・バン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の誕生日だ。
1853年生誕〜1890年逝去(37歳)。

ベルギーとの国境に近いオランダのブラバント地方のズンデルト村に6人兄弟の長男として生まれた。父は牧師だった。8歳の頃から村の学校に通い始め、語学力に優れ、フランス語、英語、ドイツ語を勉強したが、15歳で退学し、その後は正式な学校教育は受けなかった。

16歳の時、画商を営む叔父の会社 グービル商会に事務員として入り、最初ハーグ、それからロンドンで勤務した。ロンドン時代に下宿先の娘と恋に陥るが、彼女にはすでに婚約者があり失恋。その後パリに異動するが、この頃から仕事をさぼるようになり、長期の無断欠勤をして解雇された。その後も語学教師、書店員と職を転々とするが落ち着くことはなかった。
1876年23歳の時、貧民街を目にし一時は牧師を目指すが、古典の勉強が不得手で挫折。正式の資格が取れないまま伝道生活を続けるが、長く続かなかった。1880年27歳の頃には画家になりたいという気持ちが強くなってきたようだ。この頃から1886年頃までが彼の第一期で、代表作は「馬鈴薯を食べる人々」。

29歳の時ハーグで、元娼婦で絵のモデルをしていたシーンと同棲し、やがて子供ができるが、翌年には関係が悪化して離別した。31歳の時にはヌエネンで8歳年上の女性マルホット・ベヘマンと愛し合い、結婚するつもりだったが周囲の反対で破局した。このとき相手が自殺未遂を起こす騒ぎがあった。

そして1885年32歳の時に「馬鈴薯を食べる人々」のモデルの一人ホルディナ・デ・フロートが妊娠し、その父親がゴッホであるという噂が立ち、ヌエネン村の司祭は女性たちに「ゴッホのモデルとなることを禁止する通達」を出した。

そこでゴッホは村を離れ、1886年33歳のとき、アントワープ、そしてパリに移り住んだ。ここから彼の第二期が始まった。弟のテオが画商をしていた関係で、ベルナールやゴーギャントゥールーズドガピサロ、スーラ、ロートレックなどとの出会いに恵まれ、彼らから印象派の技法を学んだ。
一時は美術学校にも通うが授業になじめずすぐにやめた。パリではテオの家に同居し、彼の生活費も実は以前からテオから出ていたようだ。この頃から彼のキャンバスは明るくなっていった。この時代の代表作は1887年の「モンマルトルの畑」。

しかし彼は次第に弟に多大な負担を掛けるのが申し訳なく思うようになり、また当時の流行していた浮世絵にも触れ、日本に憧れを抱くようになり、日本を光の国だと考えていたゴッホは1888年35歳のとき、数十人の画家を誘い日差しの強い南仏のアルルへ向かった。しかしアルルには結局ゴーギャンしか訪れなかった。

しばらくホテルに滞在したあと同年5月「黄色い家」に定住。ここでゴーギャンと共同生活を送りながら制作活動を行なった。ゴッホにとって最も精神的に充実した日々であったようだ。これが第三期。黄色い家にいた15ヶ月の間に「アルルの跳ね橋」「向日葵」などをはじめ200点もの作品を制作した。

1888年、ゴッホゴーギャンは互いの肖像画を描き合おうということになり、ゴーギャンは「向日葵を描くゴッホ」を制作。しかしその絵を見たゴッホは自分の中に何か異常なものを見いだし、思わずゴーギャンにグラスを投げつけた。そして彼は発作的に自分の耳を切り落とした。ゴーギャンは二人の生活が破綻したことを知り、黄色い家を去った。

ゴッホは、翌1889年、耳の怪我の治療を終えて黄色い家に戻るが、病的な発作が度々彼を襲った。市民からの要請にもとづき、市長がゴッホを監禁することを決定。サンレミのカトリック精神療養院で入院生活を送った。そこで制作を続けながらも何度も精神錯乱に陥った。このサンレミ時代以降が第四期になり、「糸杉」などの名作がある。翌1890年オヴェールでピストル自殺をはかるが、急所をはずれて即死には至らず、いったん宿に戻るが、結局2日後、弟のテオなどに看取られて波乱の一生を終えた。
翌年にはテオが兄の後を追うように死去、ゴーギャンタヒチに旅出っていった。

ゴッホは、セザンヌゴーギャンなどと同じくポスト印象派後期印象派)の画家と言われるが、その絵は、表現主義創始者といわれるほど激しく個性的で、色彩や作品の主題は象徴主義的といわれるほど深遠かつ論理的だ。いわばゴッホは、時代とともに生き、そして時代を先取りした画家だ。
印象派と日本の浮世絵の影響を受け、大胆なタッチで、律動的な線条と明るく激しい色調の独特の画風を確立した。

また、熱狂的過ぎて伝道をとめられてしまったり、娼婦と同棲したり、自らの耳を切ったり、その情熱的な人生はもはや伝説となっている。生前は一つの作品「赤い葡萄畑」しか売れなかったというエピソードも良く知られている。

彼の作品が世界中の人々に愛されているのは、それらが慈愛に満ちているからだけではなく、彼の生涯を経済的、精神的に支えた弟テオとの手紙のやりとりがほとんど完全なかたちで残っているからでもある。
不遇の画家と有能な画商であった二人の間に交わされた膨大な書簡集は、ゴッホ作品や当時の美術の状況についての理解に役立つだけでなく、書簡文学の傑作とみなされている。

ゴッホは、自分の気持ちに素直でありすぎたために、社会生活においては順応できなかったが、芸術家としては結果として大成している。死ぬまで不幸に見えるが、最期のことばにあるように、自分では納得していたようだ。

企業人としては、ゴッホのような行動は許されないが、考え方としては刺激的で画期的なアイデアを生み出す元になる可能性もある。そのような考え方をする人を疎外せずに受け入れることも必要だ。


ゴッホの最期のことば
  「ともあれ、僕は、僕自身の作品に対して人生を賭け、
    そのために僕の理性は半ば壊れてしまった―それもよい―…」


ゴッホの作品
      
   馬鈴薯を食べる人々     向日葵(ひまわり)    アルルの跳ね橋


ゴッホのDVD
  ゴッホ [DVD]
  ベイビー・ヴァン・ゴッホ [DVD]
  ゴッホ meets ベートーヴェン [DVD]
ベイビー・ヴァン・ゴッホ [DVD]ゴッホ [DVD]

 

 
ゴッホの本
  ゴッホの手紙 上 ベルナール宛 (岩波文庫 青 553-1)
  炎の画家:ゴッホ (講談社文庫―文庫ギャラリー)
  ファン・ゴッホ (ポートフォリオシリーズ)
  ゴッホの遺言―贋作に隠された自殺の真相
  人間ゴッホ―麦畑の挽歌
  ファン・ゴッホ (HAZAN1000)
  ゴッホを旅する―カルチャー紀行
ゴッホを旅する―カルチャー紀行ファン・ゴッホ (HAZAN1000)ゴッホの遺言―贋作に隠された自殺の真相炎の画家:ゴッホ (講談社文庫―文庫ギャラリー)