アピールする方法を考えて   

花田清輝

きょうは評論家、小説家、劇作家 花田清輝(はなだ きよてる)の誕生日だ。
1909(明治42)年生誕〜1974(昭和49)年逝去(65歳)。

福岡県福岡市東公園三で生まれた。旧制福岡中学から鹿児島の第七高等学校造士館の文科甲類に入学したが、ほとんど通学せず、2年後1928(昭和3)年3月、七高を落第退学した。

彼は、七高の南寮に入寮する際の新入生歓迎コンパで、自分はフィレンツェ出身だと自己紹介し、イタリア・ルネッサンスについて30分ほども講釈したようだ。鼻は高く、眼は大きく、彼の風貌はどことなくエキゾチックなところがあり、本当にイタリア人であると信じたものもいたようだ。

七高を退学したあと、九州帝大哲学科の聴講生となったが、1929(昭和4)年4月、京都帝大文学部選科(英文学)に入学。1931(昭和6)年11月、授業料滞納のため除籍処分となり、翌1932年1月、帰郷した。
1933(昭和8)年24歳の春、上京。リベラル政治家から翼賛運動、さらに東条内閣への抵抗から割腹自殺をとげた政治家、中野正剛の主宰する「東方会」に参加し、治安維持法下、共産党幹部の転向があいつぐ時期にレトリックと笑いによるしたたかな抵抗を提唱した。1935(昭和10)年26歳で松島トキと結婚した。
1940(昭和15)31歳のとき中野秀人・岡本潤らと「文化再出発の会」を結成、機関誌「文化組織」を発行し、戦時下の知識人の抵抗をこころみた。

日本敗戦後、レトリック論を「復興期の精神」として上梓し、一躍、新時代評論の旗手となった。無類の博識、奔放な連想、大胆なレトリックと弁証法を駆使し、戦後の評論界に衝撃を与えた。
1944(昭和19)年35歳のとき軍事工業新聞社(のちの日刊工業新聞社)に入社したが、翌年退社した。

1947(昭和22)年38歳の時、加藤周一佐々木基一福永武彦・中野秀人らと「綜合文化協会」を結成し、機関誌「綜合文化」を発刊、戦後芸術運動の推進に多大な役割をはたした。
翌年、岡本太郎埴谷雄高らと「夜の会」を結成し、アヴァンギャルド芸術を主導する一方、中野の遺児たちが起こした「真善美社」の顧問となって、埴谷の「死霊」や安部公房の「終わりし道の標べに」などの重要作品を世におくりだした。

花田は「有機物から無機物へ」、「鉱物主義」などのスローガンでアヴァンギャルド芸術の理念を説明したが、これはブルジョア的観念論から唯物論への転換を説くマルクス主義芸術論と重なるものがあった。はたして、花田は1948(昭和23)年39歳のとき日本共産党に入党。平和路線をとる所感派に属し、「新日本文学」の編集長となった。しかし、プロレタリア文学論を主張する旧ナップ派と対立し、中央委員会を批判する意見書を大西巨人ら党員文学者たちと提出、後に編集長を解任され、1961(昭和36)年には党を除名された。

彼は、映画、ラジオドラマ、演劇など、当時のニューメディアにいちはやく注目し、はなばなしい活動をおこなったが、これは吉本隆明との論争の一因ともなった。
1950(昭和25)年代後半からは「小説平家」、「鳥獣戯話」、「室町小説集」など、転形期の人物像を描いた小説、戯曲をつぎつぎと発表し、読書人を魅了、多才ぶりをしめした。好んでさまざまな紛議の中に自らを投じつつ、自己を確立していった、きわめて異色の天才だった。

花田清輝は、幼少の頃から少し変わった人間であり、世の中を斜に見据え反抗的だったようだ。しかし、人との交わりにおいては、多岐にわたり、自分の意見を持ち、それをいろんな場面で主張している。また早くからニューメディアに注目し、自分をアピールする方法を考えていたようだ。

企業においても、現状に満足しない考え方で業務を捉え、また自分の意見を持ち、それを適切な方法でアピールすることは、有効な能力として評価できる。


花田清輝の本
  復興期の精神 (講談社学術文庫)
  日本のルネッサンス人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
  もう一つの修羅 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
  鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)
  花田清輝 (日本幻想文学集成)
  花田清輝論 -吉本隆明/戦争責任/コミュニズム-
  転形期における知識人の闘い方―甦る花田清輝
転形期における知識人の闘い方―甦る花田清輝花田清輝論 -吉本隆明/戦争責任/コミュニズム-鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)復興期の精神 (講談社学術文庫)