限界点を顕著に   

香川 綾

きょうは昭和期の栄養学者、医学博士で女子栄養大学の創設者 香川 綾(かがわ あや)の誕生日だ。
1899(明治32)年生誕〜1997(平成9)年逝去(98歳)。

和歌山県本宮村に生まれる。父は警察官 横巻一茂、母はのぶ枝。1914(大正3)年 和歌山県師範学校女子部に入学。14歳の時、母の急死で医学を志すが、師範学校卒業後は小学校教員として働いた。しかし、医者になる夢を捨てがたく、1921(大正10)年22歳のとき上京し、東京女子医学専門学校(現 東京女子医科大学)に入学した。

1926(大正15)年に卒業後、東京帝国大学医学部島薗内科学教室に「介補」として勤務した。ここで伴侶となる香川昇三と出会い、1930(昭和5)年31歳で結婚(横巻から香川に改姓)し、一女三男を育てた。1933(昭和8)年、夫妻で現在の香川栄養学園の前身にあたる「家庭食養研究会」を設立した。
1935(昭和10)年36歳の時、雑誌「栄養と料理」を創刊した。1945(昭和20)年46歳のとき、空襲で校舎も研究所も焼失し、群馬県へ学校を疎開させた。疎開先で同年7月、夫 昇三が病気で亡くなった。
1947(昭和22)年には学園を再建した。

1950(昭和25)年51歳の時、女子栄養短期大学を創立させた。同校の学長兼教授に就任する必要もあり、前年にはそれまでの研究成果をまとめ、夫の昇三から臨床指導を受けた「本邦食品のビタミンB1と脚気の研究」を提出して東京大学から医学博士の学位を授与された。

1961(昭和36)年62歳のとき、家政学部食物栄養学科として女子栄養大学が認可されたが、これを1965(昭和40)年には栄養学部栄養学科への変更にこぎつけた。その後、大学院も併設するに至り、栄養学固有の研究者養成コースを確立するとともに、あわせて社会的認知を確かなものにした。1990(平成2)年91歳のとき女子栄養大学の学長を後進に譲った。

香川 綾は、料理と栄養と健康を結びつける方法として、計量カップ・計量スプーンを考案し、「調味パーセント」「4群点数法」などを提唱した。また、胚芽米の推奨、「栄養家計簿」の創刊、「栄養クリニック」の開業など予防医学の立場から栄養学の普及に努め、生涯を日本人の栄養改善に捧げ尽くした。

また、厚生省だけでなく、文部省・農林省・資源調査会をはじめ、さまざまな政府委員として、食糧生産や学校給食まで、食にかかわる多くの問題について発言する機会を得ていた。また、日本栄養・食糧学会では創立時から中心メンバーだったし、「家庭科」教科書の執筆も手がけた。
香川は栄養学の第一人者として、食教育の重要性や栄養学の役割などを強調したが、1970年代のいわゆる「食品公害」については、根本的な問題にはならないという態度をとっている。しかし、その沈黙は結局、厚生行政との同調を生み栄養学の限界点を顕著にした。

香川 綾は、医学の観点から栄養学を確立し、教育者としてその普及に努力し、その功績は大きく評価できる。しかし、晩年は政治的な関わりをもつようになり、本来の姿から若干ずれてきたようにも思える。

企業においても、役職が上になったり、経験年数が多くなったりすると、つい保守的になってしまったり必要以上に周りを気にしたりすることがある。
本来あるべき姿を見失わないように、ときどきは初心に返って軌道修正することも必要になってくる。


香川 綾のことば
  「きょう、朝日が見られることに、命がある ありがたさを感じる 」


香川 綾の本
  1日1日ていねいに
  四訂食品成分表〈1997〉
  1日30食品を食べるための栄養データ・ブック
  余白の一行
  香川綾―栄養学と私の半世記 (人間の記録 (52))
  人生あせることはない―栄養学の母・香川綾九十八年の生涯
  香川綾からのメッセージ―実録『食事日記』
人生あせることはない―栄養学の母・香川綾九十八年の生涯香川綾―栄養学と私の半世記 (人間の記録 (52))余白の一行四訂食品成分表〈1997〉