けん制する意味では   

村山龍平

きょうは朝日新聞社を創業した「新聞王」 村山龍平(むらやま りょうへい、号:香雪)の誕生日だ。
1850(嘉永3)年生誕〜1933(昭和8)年逝去(83歳)。

紀州徳川藩の支藩 伊勢国田丸の城下(現 三重県度会郡玉城町 わたらい たまき)で藩士国学者 村山守雄の長男として生まれた。幼名は直輔。1867(慶応3)年17歳で旧田丸藩に出仕。剣道のほか砲術を学び、成績抜群のため褒賞された。
この頃は、江戸時代から明治維新、文明開化へと、政治・経済・社会・文化あらゆる方面でめまぐるしく変革していた。

1869(明治2)年、明治維新により藩籍奉還のため、父 守雄は士族の身分を捨て田丸城下を去り、伊勢宮川の川端に移った。1871(明治4)年21歳の時、一家を挙げて大阪に移住、父が隠居し、家督を相続して龍平となった。
翌年、西洋雑貨商「田丸屋」を開業し、数年後には店を大きくし「玉泉舎」とした。
1877(明治10)年の西南の役を境に世情も落ち着き始めたが、そうした中、1879(明治12)年1月25日龍平29歳の時、大阪・江戸堀南通に朝日新聞社を興し、創刊第1号を発刊した。紙面は小型4ページ、総ふりがな・絵入りで定価1部1銭、一ヶ月18銭、1日平均部数は約1000部、従業員は約20人だった。
わかりやすく、親しみやすい大衆向け新聞を、というのが創業時のモットーだった。

創業から2年後に上野理一が経営に参加した。
1882(明治15)年には、編集方針として「報道中心主義」と「公平無私」をかかげた。これは官権派や民権派の政論新聞が主流だった当時では異色のもので、その精神は「不偏不党」を柱とする現在の朝日新聞綱領となって受け継がれている。

創刊4年後に早くも2万部を超えて全国首位になり、1988(明治21)年には東京へ進出して東京朝日新聞を発刊した。
さらに、活字の自社鋳造や記者の欧米派遣、輪転機の導入など、いずれも日本の新聞界では初めての新機軸をつぎつぎと打ち出し、今日の新聞事業の原型を生み出した。

龍平は、1891(明治24)年41歳のとき大阪府選出の代議士に当選した。
1926(大正15)年、三重県田丸尋常高等小学校へ金1万5千円を寄付(旧 田丸小講堂建築寄贈)した。1928(昭和3)年、伊勢田丸城跡の払い下げを受け、城山公園として田丸町に寄付した。
1930(昭和5)年80歳の時、貴族院議員に勅選された。1932(昭和7)年、三重県田丸町旧村山邸跡を町に寄付、「香雪園」という遊園地にした。

朝日新聞社は、国会開設を機会に新聞の大衆化と大量生産に努め、海外通信網の確立強化に先鞭をつけて他紙の追随を許さず、世界的大新聞としての地位を確保した。一方、公正な世論の指導、文化の宣揚、国際親善、学術技芸の奨励等社会事業に尽力、殊に航空事業の普及発達に貢献した。
龍平は、日本の新聞界に大きな業績を残し、「新聞王」と称されている。

また龍平は、美術にも深い関心を寄せ、岡倉天心らの主宰する美術雑誌「国華」の経営を引き受けたりもした。開国後、多くの価値ある美術品が日本から海外へ流失し始め、それを食い止めたいという思いから、美術品の蒐集に力を注ぎ、刀剣からはじまり仏画・墨蹟・古筆・茶道具の名品をほとんど集めた。
大正に入ると、美術品の値が上がり始めたが、龍平はそうした風潮を好ましく思わなかったようだ。収集品は、兵庫県の村山邸を「香雪美術館」として、収蔵展示されている。

村山龍平は、新聞社を創設し次々と新しいアイデアを取り入れ、大衆に支持され大きく発展している。今では左寄りの新聞とされているが、方針としてはあくまでも中立であり、右寄りのメディアをけん制する意味では、大きな役割をもっている。

最近ではメディアの力が強力になり、それが世論を動かし、国を動かしている。
企業においても、上にたつ人は、その発言やふるまいが社員に大きく影響し、社風を作り、会社の発展に大きく関わっていることを十分に認識しなくてはいけない。


朝日新聞に関する本
  朝日新聞の大研究 (扶桑社文庫)
  「言論の死」まで―『朝日新聞社史』ノート (同時代ライブラリー (260))
  VS.朝日新聞
  朝日新聞は主張する
  歴史の瞬間とジャーナリストたち―朝日新聞にみる20世紀

歴史の瞬間とジャーナリストたち―朝日新聞にみる20世紀「言論の死」まで―『朝日新聞社史』ノート (同時代ライブラリー (260))