師と仰ぐ人がいれば   

池田光政

きょうは江戸時代初期の備前岡山藩3代目藩主 池田光政の誕生日だ。
1609(慶長14)年生誕〜1682(天和2)年逝去(73歳)。

姫路城主 池田利隆の嫡男(ちゃくなん:正妻の子)として、岡山城に生まれた。池田利隆は幼少の岡山藩主 池田忠継に代わり岡山城で執政にあたった。1616(元和2)年7歳の時、姫路藩主となっていた利隆の死に伴い遺領42万石を継ぐが、幼少のため翌年因幡国 伯耆国32万石の鳥取藩主に転封(てんぽう:大名の領地を他へ移し変えること)となった。

1628(寛永5)年19歳で天樹院(千姫)の娘勝子と結婚した。鳥取在城時は鳥取城と城下町の大改修を手がけたが、1632(寛永9)年23歳の時、岡山城主 池田忠雄が没すると従弟 池田光仲との国替えで、青年藩主として誕生の地 岡山城に入城し、31万5,200石を知行することになり、以後50年間藩政を執った。
光政は儒教を信奉し、藩政に「仁政」を実践すべく、藩主親政の領国治世に邁進した。儒教を藩是とし、熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)をはじめ、多くの儒学者を岡山に招いた。しかし、彼が儒教を信仰したことにより幕府側から謀反の疑いをかけられ、光政は偽装をし、蕃山は何度も身を隠さなければならなかった。

光政の治績は、1654(慶安7)年の大洪水で藩政が危機に直面したとき、家臣に領主権を分与する地方知行制(じかたちぎょうせい)から米・貨幣を与える俸禄制への転換といった行政の抜本的改革。大規模な新田開発と農村整備・治水対策といった領地の整備。
また藩士の子弟のための藩学校のほかに一般領民の教育施設である閑谷学校(しずたにがっこう)を整備するなどの教育施策。一方、財政緊縮に努め、質素な家風は「備前風」と呼ばれた。まさに岡山藩政の基礎を確立した。

1672(寛文12)年63歳の時、藩主の座を嫡男 綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居したが、強い権力をもった。このとき新田分のうち2万5,000石を二男 政言(まさこと)に、1万5,000石を三男 輝録(てるとし)に分知し、それぞれ鴨方藩生坂藩支藩として設置した。
光政は、水戸藩主・徳川光圀会津藩主・保科正之と並び称される、近世初期屈指の名君であった。

池田光政儒教を信奉し、それをもとに数々の藩政改革を行っているが、熊沢蕃山という優れた師がいたからできたのだろう。やはり人は師と仰ぐ人がいれば心強いもので、早い時期に巡り会うことができれば幸せである。

企業においても、いろんな出会いがあり、上司や経営役員に師と仰げる人を見出すことができれば、双方にとっても会社にとっても、有意義であるに違いない。
また師は、生存していない人も可能で、伝記などにより出会うことができる。
人が大きく変わる条件として、①人との出会い、②仕事との出会い、③ことばとの出会い がある。じっと待っているだけでは、出会いは少ない。


池田光政に関する本
  池田光政 (人物叢書)
  劇画・郷土の歴史 岡山藩郡代津田永忠物語
  岡山藩 (日本歴史叢書)
  犯科帳のなかの女たち―岡山藩の記録から (平凡社選書)
  民心黙し難し―小説・閑谷学校
  閑谷学校ゆかりの人々
民心黙し難し―小説・閑谷学校犯科帳のなかの女たち―岡山藩の記録から (平凡社選書)