批判的に見るという   

内田魯庵

きょうは明治時代の文芸評論家、翻訳家、随筆家 内田魯庵(うちだ ろあん、本名:貢、幼名:貢太郎、号:魯庵)の誕生日だ。
1868(明治元)年生誕〜1929(昭和4)年逝去(61歳)。

江戸下谷車坂六軒町に幕府御家人上野東照宮警護役の内田鉦太郎の長男として生まれた。
1872(明治5)年4歳の時、戸籍法施行にともない、貢太郎を貢と改名(父は正に改名)した。父は東京府に出仕していたが、相場で儲け、同年、下谷埋堀の旧松前藩下屋敷を買いとって移った。ここで母親が急逝、父は六年間で六人の後妻をむかえるなど、女出入りが激しくなり、魯庵の反面教師となった。

1878(明治11)年10歳の時、父は相場に失敗し、埋堀の邸を手放した。最後の後妻を家にいれ魯庵の養育をまかせ、自分は内務省官吏として地方回りの生活にはいった。魯庵は義母と折り合いが悪く、亡き母の実家に世話になったり、下宿したりだった。
立教学校(現 立教大学)、大学予備門(現 東京大学教養学部)、東京専門学校(現 早稲田大学)で学ぶが、どこも中退で卒業していない。この間、叔父の文部省編集局翻訳係 井上勤のもとで下訳(:大まかな翻訳)をしたり、井上主宰の翻訳雑誌の編集に従事した。

1888(明治21)年、山田美妙の「夏木立」に対し、魯庵は長文の評論を書き、美妙に送ったところ、その文が認められ、巌本善治の「女学雑誌」に「山田美妙 大人(うし)の小説」として掲載された。これを機に文芸批評を発表しはじめ、J・アディソンを学んだ軽妙な風刺を得意とした。
1889(明治22)年、処女小説「藤の一本」を「都の花」に連載。この年、ドストエフスキーの「罪と罰」を英訳で読み、衝撃を受けた。

二葉亭四迷坪内逍遥の知遇を得て、文学とは何かを正面から考えるようになった。近代小説をいち早く理解し、明治・大正期の代表的批評家と目された。
1892(明治25)年24歳の時、「罪と罰」の前半部分を英訳から重訳して刊行。以後、トルストイヴォルテール、デュマ・フィス、ゾラ、モーパッサン、シェーンキェヴィッ チ、ワイルド、モーパッサンなどを翻訳した。

1901(明治34)年33歳の時、小説「破垣」がモデル問題から発禁とされた。同年、丸善に書籍部顧問として迎えられ、「學の燈」(後に「學燈」、「學鐙」)の編集をまかされた。1908(明治41)年40歳で、「図書館雑誌」の編集委員となった。硯友社以来の文壇の無思想性に抗して、文学の社会性を位置づけ、批評のジャンルを確立した。

魯庵は、ペテルブルクにおもむく二葉亭四迷の送別会で発起人代表として送辞を述べた。翌1909年、二葉亭が客死、この年の12月、丸善が全焼し、改訳中の「罪と罰」の原稿を失なった。前半の改訳は7年後に刊行し、全訳はならなかったが、明治の思想に大きな影響を与えた。

1910(明治43)年42歳の時、坪内逍遥、池辺三山とともに「二葉亭四迷全集」を編纂。1916(大正5)年、随筆集「きのふけふ」を刊行(後に増補して「思ひ出す人々」)した。1918(大正7)年からは「トルストイ全集」を共同監修した。この頃から随筆を書くようになり、文明批評や回想談などに優れたものを残した。

1929(昭和4)年61歳の時、「銀座繁盛記」を発表。2月、生家の近くに建った松坂屋のために「下谷広小路」の執筆中、脳溢血で倒れた。
魯庵の死の二ヶ月後、小林秀雄が文壇に登場し、魯庵の名前は急速に遠くなっていくことになる。

内田魯庵は、文芸評論家として文壇での地位を得るようになるが、その活動の中には、幼い頃に父母の愛情を十分に受けられなかった歪が、世の中のものを批判的に見るという形で現れているのではないか。それが度を越えない程度で軽妙であるため、あまり好ましく思われていないかもしれないが、つぶされるまでには至っていない。

企業においても、現状に対する批判や不満は、その表現の仕方を考えて行わないと、受け入れられないどころか、感情論になり長々と尾を引きワルのレッテルを貼られてしまう。すべてに順応する人は要注意だが、すべてに反対する人はつぶされてしまう。その兼ね合いが難しいところだ。


内田魯庵の本
  新編 思い出す人々 (岩波文庫)
  くれの廿八日 他一篇 (岩波文庫)
  気まぐれ日記
  魯庵の明治 (講談社文芸文庫)
  内田魯庵 (明治の文学 11)
  内田魯庵研究―明治文学史の一側面 (和泉選書)
  内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘
内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘内田魯庵研究―明治文学史の一側面 (和泉選書)魯庵の明治 (講談社文芸文庫)気まぐれ日記