世俗の栄達を好まない

ファラデー

きょうは「電気学の父」と言われたイギリスの物理学者 マイケル・ファラデー(Michael Faraday)の誕生日だ。
1791(寛政3)年生誕〜1868(明治元)年逝去(75歳)。

イギリス ロンドン近郊のニューイントンに鍛冶職人の3番目の息子として生まれた。一家は全部で10人もの子供をかかえ、家庭は非常に貧しかった。このためファラデーは小学校しか卒業できず、13歳のときに製本工場で見習いとして働きはじめた。

製本屋で様々な本に出会い、特に科学系の本に興味をもち、無我夢中で読んだ。そのとき、同じ製本屋でファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエがファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵を描くのが非常に上手くなり、科学系の本にある実験装置などを見事に描き写した。
ある日ファラデーのノートを見て感動した一人の客が、ある科学講演の入場券を譲ってくれた。それは、当時 大化学者であり、後にファラデーの師となる王立研究所の科学教授 ハンフリー・デイヴィの講演であった。

ファラデーはデイヴィの科学講演をデッサンし、講義筆記ノートとその内容に関する自らの意見を各所に付してデービィに送った。それを見たデイヴィは、彼のただならぬ才能に驚き、自分の実験助手に迎えたのです。

ファラデーが科学の道を歩みたいとデイヴィに言ったところ、デイヴィに「科学は苦労の連続である。今の仕事を続けなさい」と言われた。
ファラデーは落胆するが、ちょうどその頃デイヴィの助手が病に倒れ、欠員がでた。それをきっかけに1813年22歳の時、デイヴィの実験助手となった。

その後のファラデーの業績は素晴らしいものだった。
ベンゼン(1825年)」「金コロイド(1857年)」「塩素・二酸化炭素アンモニア・二酸化硫黄などの液化」などを次々と発見し、1821年30歳の時にデンマークのエルステッドよりわずかに遅れて「電磁誘導現象」、「ファラデーの法則」として有名な「電解の法則(1833年)」を発見するなど、超人的な科学者であった。

とにかく一人でこつこつと実験をした。
ある時、ファラデーが電池をつないだり切ったりしながら、磁針をいじくり回していると、ある婦人が「そんなつまらないもの、いったい何の役に立つのでしょうか?」と聞いた。ファラデーは、「奥さん、生まれたばかりの赤ん坊は何の役に立つのでしょう?」と、問い返した。

彼の研究の中でも電磁気学は素晴らしく、他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対してファラデーは空間における電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究しており、後のマクスウェルによる電磁方程式の確立に多大な影響を与えた。

彼の成果で特筆すべきは、1833年、電気分解に関する基本法則を確立した「ファラデーの法則」で、電気分解で電極に生じる物質量と電流の強さ、流す時間との関係を研究するとともに、自ら考案したボルタ電量計を用いて、分解によって生じる物質の重量関係を調べた。

その結果、電流の分解作用は、流れた電流量に比例するが、電解質の濃度、電極の大きさ、電気の種類は無関係であるということ、また同一量の電流によっては析出する物質は、つねにその科学当量に比例することを発見した。
この発見は近代電気科学の基礎をつくった。

電線に電気を通すと「電流の磁気作用」でまわりに磁気が発生するが、その逆に磁気から電気が生まれないかとファラデーは考えた。そして中空の円筒に導線をまいたコイルの中に、棒磁石を出し入れすると、コイルに電流が流れることを発見した。1831年、ファラデーが40歳の時だった。

これが「電磁誘導の原理」で、その応用として電線に電流を流すと電線が固定磁石のまわりを回転する装置(ファラデーのモータ)等を考案した。これにより、電動機(モーター)や発電機、変圧器が発明され、現在の電力時代が始まった。

さらに、光が磁場によって偏光される「ファラデー効果」を発見し、従来無関係と考えられていた電磁場と光が密接な関係にあることを実験的に証明した。さらに光と磁気も相互に関係があることを示した。

後にマクスウェルによって彼の業績やクーロンの業績等を数学的に記述すると、その方程式が電磁波の存在を予測し、ヘルツによって実験的に証明され、マクスウェルの式で電磁波の速度は一定不変であることを示し、それをアインシュタイン相対性理論へと発展させた。
このようにファラデーは現代科学の大きな流れの源を作った。

一方彼の師デイヴィも偉大な化学者だったが、デイヴィの言葉に、「私の最大の発見はファラデーである」とある。小学校しか卒業してない製本屋の見習いが「19世紀最大の科学者」と言われるようになったことを考えると確かにファラデーはデイヴィの最大の発見だった。

デイヴィの後をついでファラデーは1824年33歳で英国王立研究所長に就任。1857年66歳の時に王立学会会長に推されたが世俗の栄達を好まないファラデーは固辞した。

また、ファラデーは一般向けの講演も多く行った。財政難の王立研究所を救うためにロンドンの王立研究所で世界の優秀な科学者たちを集めた「金曜講演」(1825年から70歳の1862年まで)、少年少女向きの「クリスマス講演」として行った有名な「ロウソクの科学」などを講演し、今日まで続いているものもある。

クリスマス講演に参加した子供たちの中から続々と次世代を担う科学者たちが現れた。今日、英国の第一線の科学者でクリスマス講演に啓発されなかった人は皆無と言えるほどだ。そして、彼らの中からクリスマス講演に講師として戻ってくる科学者達も続々と誕生している。

クリミア戦争の際には政府から化学兵器を作ってもらえないかとファラデーに要望がきたとき、彼は机をたたいてこう言った。「作るのは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。
1867年自宅で椅子にもたれかかり眠るようにして亡くなった。

静電容量の単位ファラド(F;farad)、物理定数ファラデー定数(96500クーロン)にその名を残す。その他にもイオン、電解質、陽極、陰極という言葉も、ファラデーがつくった。すぐれた直観力を持った偉大な実験科学者で、「電気学の父」と呼ばれたが、実験結果を数学的に厳密に記述することにはあまり関心がなかった。

マイケル・ファラデーは、労働者階級の出身で、正式な科学教育を受けていないが、長く努力を積み重ねた末、19世紀の偉大な科学者の一人となった。彼の所属する宗派が清貧の生活を重んじていたこともあり、これほど多くの発明、発見をしながらファラデーは1件も特許を得ていない。報償は全て断わり、地位も名誉も求めていない。そして貧しく死んでいった。

企業において、技術開発は重要だが、それをお金に換え、次の研究のための資源としなければ企業としては成り立たない。継続できなければ企業の存在価値は無い。正当な報酬を得ることも立派な企業活動である。

★英国の技術★
ファラデーの活躍した1800年代前半は英国の力がピークの時代であった。
1851年ロンドンで開催された「第1回世界大博覧会」では、英国は圧倒的な工業力を示した。ところが、繊維などの旧産業に偏りがちで、自動車、電気、化学などの「新産業への転換」はあまりうまくいかなかった。

英国を追いかけるドイツと米国の躍進が目覚ましかった。また、英国に始まった「特許制度」も各国へ広まり、実用新案制度、公告、異議申立制度を取り入れ制度の改良を図ったドイツ、特許見本や詳細な明細書によって発明を広めることを重視した米国というように、それぞれ独自の発展をしていった。

英国は、1840年代までは電信、電報技術で世界トップであったが、その後の電話技術は米国に追い越された。
1885年にはドイツでダイムラーとベンツが実用的な自動車を開発した。英国はフランスの自動車技術を導入したが、この分野ではドイツ、フランスの後塵を拝していた。米国から進出したイギリス・フォードは1900年代初め頃には英国最大の自動車会社になった。

ファラデーよりもさらに50年ほど後に生まれたエジソンは、ボストン時代にファラデーの書いた本で学習し、実験をしていた。
電気の分野でも、電球や発電用蒸気タービンは英国で発明されたが、企業化は遅れた。化学分野では、1800年代の終わり頃にはドイツの化学企業は大きな中央研究所を作って組織的な研究を始めており、英国からドイツに研究開発の主導権が移っていた。

ファラデーのことば
  「何かが起こったら、必ず、特にそれが新しいもののときは、
   『原因はなんだろう?どうしてこうなるんだろう?』と考えるべきなのです。
   いずれその答えが見つかるでしょう」
  「ある事実を自分自身で見たものでなければ、
   私は決して自分のものにできなかった」


ファラデーの本
  ロウソクの科学 (角川文庫)
  ろうそく物語
  電気実験 上巻 (古典化学シリーズ)、下
  ファラデー―実験科学の時代 (講談社学術文庫)
  わたしもファラデー―たのしい科学の発見物語
わたしもファラデー―たのしい科学の発見物語ファラデー―実験科学の時代 (講談社学術文庫)ろうそく物語