鋭敏な感覚による

菱田春草

きょうは早世した日本画菱田春草(ひしだ しゅんそう、本名:三男治 みおじ)の誕生日だ。
1874(明治7)年生誕〜1911(明治44)年逝去(36歳)。

長野県伊那郡飯田町(現 飯田市)に士族 菱田鉛治の三男として生まれる。少年期から絵を描くことは好きだったようだが、その頃には、天賦の才は彼の裡に潜伏したままだった。
1889(明治22)年15歳の時に上京し、結城正明に師事し狩野派の絵画を学んだ。

その後、1890(明治23)年 東京美術学校で校長 岡倉天心・橋本雅邦・川端玉章らの指導を受けた。寡黙で理知的な人柄からは想像できないような強い意志を持って制作に取り組んだ。1895(明治28)年の卒業時、卒業制作に「寡婦と孤児」を描いて最高点を得た。
同年、帝国博物館より古画の模写を委嘱され、京都、奈良などで模写活動に従事した。また、1896(明治29)年の日本絵画協会第1回共進会に《春艸》と号して「四季山水図」を出品した。後に雅号の“艸”を“草”に変えた。

1896(明治29)年22歳のとき母校の絵画科教員を嘱託されるが、1898(明治31)年に岡倉天心を排撃する「東京美術学校騒動」が起こると、春草は恩師 天心の辞職に伴なって橋本雅邦・横山大観・下村観山らとともに同校を連名辞職し、新たに「日本美術院」の創設に参加した。

天心の唱える個性創造の理想に応え、洋風画を取り入れ、沿線彩画描法を駆使して新しい日本画を追求、「雲中放鶴」「蘇李訣別」などの作品を残した。これは師の雅邦を超えた前衛的作品であるが、実在感の乏しさを課題に残した。

日本美術院で、横山大観、下村観山らとともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる輪郭線を廃し遠近感を表現するという画法など日本画の表現に新たな可能性を導き、批判を受けながらも西洋の技法も取り入れた新しい日本画の創造を試みた。
朦朧体は国内では伝統的な旧派の画家や批評家から酷評されたが、ヨーロッパでは好評を博した。

1903(明治36)年27歳の時に盟友 大観とともにインドを旅行、また1904(明治37)年から翌年にかけて天心・大観らと渡米・渡欧し、各地で展覧会を開催した。

1906(明治39)年32歳の時、日本美術院茨城県五浦(いずら)への移転に伴ない同地に移住し、日夜研鑽に努めた。1908(明治41)年34歳のとき眼疾のため一時帰京、1909(明治42)年の第3回文部省美術展覧会(文展)に「落葉」を、翌年の第4回文展に「黒き猫」を出品し、好評を得た。

写実的画風から日本画と洋画との対立を統一へと進め、「落葉」で線と色彩の調和ある知的・静寂な自然描写を確立、近代日本画の一つの到達点と高い評価を受けた。網膜炎と腎臓病を患って失明の危機に直面し、しばし療養に専念することを余儀なくされた後に、ようやく小康を得た時に制作された作品だ。「落葉」以後、さらに内的世界に沈潜、洗練された技巧をもって古典的・象徴的画境を深くした。

1910(明治43)年 文展審査委員になった。1911(明治44)年8月に失明、翌月惜しくも36歳で亡くなってしまったため、大観ほどの名声は得られていないが、写実と装飾の調和も美しく、日本絵画史に燦然と輝く完成度の高い作品を残した。

春草は、岡倉天心に「不熟の天才」と称された。描かれる花鳥画は外に向けての主張よりもむしろ内に向かう精神性の現れであり,そこには「音のない世界」を感じさせた。豊かな才能と果敢な実行力で近代日本画の基礎を築きあげた春草の功績は大きく、「落葉」「黒き猫」「賢首菩薩」「王昭君」の4作品が国の重要文化財に指定され、その鋭敏な感覚による知的で清澄な画面は深い詩情を示している。

菱田春草は、内的・観照的境地を描いて著名な明治後期の代表的日本画家だが、若くしてこの世を去り、画業生活はたった15年ほどだった。にもかかわらず、彼は、日本絵画史に残る画境にまで到達した。

企業においても、あまり目立たなかった人が、あるとき猛然と働き始め大きな成果を出すことがある。上司や業務に恵まれたときなどだが、気をつけたいのは、その上司や業務が変わったときにどうなるかだ。成功体験などにより気が緩まないような配慮が必要となる。


菱田春草の作品
        
   仏御前        苦行         黒き猫       猫梅


菱田春草の本菱田春草 (新潮日本美術文庫)
  菱田春草素描集
  菱田春草(正編)
  カンヴァス日本の名画 8 菱田春草
  菱田春草 (新潮日本美術文庫)
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