比すもののない人生舞台

立石一真

きょうはOMRONを創業した「前衛企業家」 立石一真(たていし かずま)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1991(平成3)年逝去(90歳)。

熊本市新町三丁目で陸軍の記念品用の伊万里焼盃を製造販売する立石熊助・エイ夫妻の長男として生まれた。幼時は恵まれた生活だったが、新町小学校一年生の時、父 熊助が亡くなるとともに家業は衰退、母 エイは下宿屋を開業、幼い一真も家を助け新聞配達を始めた。
この時に貧の辛さと働きの大切さを知り、同時に祖母 幸の躾をうけ、戸主の責任と自覚、強い独立心が培われた。

幼時の一真は、肥後もっこすさながら、きかん気のやんちゃ坊主で、「よく遊び、またよく遊んだ」。1913(大正2)年4月、熊本中学(現 県立熊本高等学校)に進学、勉強に野球にと青春を燃焼、四年生のとき家計も考えて憧れの海軍兵学校に挑戦、最後の身体検査で不合格となった。五年生の学力基準を自習で修得した体験は、学力の向上はもちろん、やればできるの自信につながっている。
オムロンの社風=企業文化に『まず、やってみる』がある。一真はその語録のなかで「“できません”というな。どうすればできるかを工夫してみろ」と述べている。
“できません”と言ってしまえば安易だし、それでおしまいだ。いい加減にせず、どうすればできるかを考え抜いてこそ頭は鍛えられ、人間は成長する。この姿勢は終生、変わらなかった。

1921(大正10)年、熊本高等工業学校(現 熊本大学工学部)の電気科第一部電気化学を卒業後、兵庫県土木課に入った。
翌年京都の配電盤メーカー 井上電機製作所に就職。アメリカで開発された“誘導形保護継電器”の国産化開発に取り組んだ。

1930(昭和5)年退職し、京都に日用品製造販売会社「彩光社」を設立。実用新案のズボンプレスを自転車で、遠く大阪まで飛び込みで訪問販売。またナイフグラインダを考案、東寺の縁日で露店販売も行なった。この苦闘のなかで、販路の確保、取引条件の整備、説明販売、広告などの大切さを身につけた。

苦しい商いのなかで専門の電機産業への意欲は高まる一方、学友の示唆から誘導形保護継電器と油入電流遮断器を組み合わせ「レントゲン写真撮影用タイマ」を開発。1933(昭和8)年33歳のとき大阪 東野田(現 大阪市都島区)に「立石電機製作所」を創業、オムロンの基礎を築いた。

1935(昭和10)年35歳の時、当時としては画期的な、電気雑誌OHMに「継電器の専門工場」の一ページ広告を載せたのも時代への先見性からだった。
大口注文も得るようになり、翌年に西淀川区の野里に二百坪もの工場を建設、さらに1937(昭和12)年には東京進出をはかった。

1940(昭和16)年、東大航空研究所からマイクロスイッチ国産化の依頼があり、研究を重ね、1942(昭和18)年に国産初のマイクロスイッチの製品化に成功した。一真は言う、「世の中Badと決めつけるのはたやすい。しかしNeed Improvement(改善の余地あり)でなければ、創造の将来はない。“まずやってみる”がわれわれが築き上げてきた企業文化なのだ」

この開発は戦争激化のため、商売として成り立たなかったが、この時の研究開発の技術が戦後、オートメーション時代に入り業界のパイオニアとしての評価を受ける基となった。1945(昭和20)年工場が戦災で全壊し、松竹京都第二撮影所の空きステージに移転、これが戦後の本社工場となった。1949(昭和24)年49歳の年に夫人を亡くした。

戦後の立石電機は、電熱器はじめ、女性のヘアアイロン、マイクロスイッチ応用の卓上電気ライターなどを生産、1950(昭和25)年1月に立石電機(株)を再建、新たなスタートを切った。一真は「生産こそ祖国復興の基本。とくに技術革新こそが経済発展への道だ」と、マイクロスイッチリレー、温度スイッチ、圧力スイッチなどを開発、販路拡大を図った。

1952(昭和27)年52歳の時、立石電機の未来を左右する決定的瞬間が訪れた。わが国の能率学の草分け上野陽一から『オートメーション』の話を聞き、西医学・西式健康法創始者 西勝造から『サイバネティクス』という書物を紹介された。
新しい時代のマーケットは?とソーシャルニーズを探り続けていた一真には、この二つの情報こそが未来を切り拓くキーだと閃いた。

1953(昭和28)年9月、日本電機工業会が企画した米国中小電機工場視察団に参加し初めて渡米。自分の目で米国オートメーションの実情を捉え、併せて企業のバックボーンである宗教とパイオニア精神についても多くを得た。帰国すると即、日本にオートメーションの時代が到来すると企業経営の改善策を検討、技術開発・管理・生産体制・販売体系など全社的な組織の抜本見直しに注力した。

一真は「条件整備さえ先行させれば、企業は自ら成長する。その条件は(1)経営理念を明確に打ち出す (2)人間の本能的行動に従う (3)本能的行動が企業を伸ばすよう施策目標をつくる (4)働き甲斐のある環境をつくる (5)全員参画のシステムをつくる (6)社会のニーズを素早く捉える (7)常に自主技術の開発に努める、の七つだ」と考え、その通り実行した。

その年、一真の指摘どおり産業界にオートメーションの波が押し寄せ、立石電機は業界に先駆け各種マイクロスイッチ、同リレー、タイマ、電磁開閉器など、見本なき独自の商品を次々開発、市場を拡げた。

それは在来の少種多量生産から、市場のニーズに応えるための多種少量生産への転換を促した。一真の独創性はここでも発揮され、1955(昭和30)年、経営効率面から独立採算性の職能別独立会社、生産面からは独立会社で機種別生産(プロデューサ・システム=『Pシステム』)を設立した。

映画界からヒントを得たこの分権制の経営体は、産業界はもちろんマスコミ各紙の評判を呼び、各地からの講演依頼に一真は悲鳴をあげることになった。
しかし、この明確なシステムと若手を大抜擢して鍛えあげる方策は、数多くの人材を育て、1955(昭和30)年代に立石電機が大躍進する原動力となった。

1959(昭和34)年に来日した経営学の権威 ピーター・F・ドラッカー教授が、この分権制「Pシステム」を高く評価、一真と肝胆相照らす友人となった。

なお1964(昭和39)年64歳の時に、労働力の確保、地方の過疎化防止、そして何よりも“地域社会への奉仕”の精神から、地元資本の参加による利潤還元を考え「ネオ・プロデューサ・システム(ネオP)」という地方分散の知恵を編み出した。

オートメーション市場の開発というベンチャリングのなかで、一真は“何か毅然たる経営方針は?”を模索。1956(昭和31)年56歳の時、経済同友会で「経営者の社会的責任とその実践」をテーマに研究し、「企業は利潤追求のためのみにあるのではない、社会に奉仕するために存在するのだ」と結論。

これを『われわれの働きで、われわれの生活を向上し、よりよい社会をつくりましょう』の社憲としてまとめ、1959(昭和34)年5月10日の創業記念日に、社の内外に示した。「われわれの生活とは、小乗的には全社員の生活であり、大乗的には全人類です」と、全社員が朝礼時に唱和、自覚して仕事にかかわり、社外にも全社員の名刺に印刷、「私どもはこの精神で働いています」と広報させた。

1957(昭和32)年57歳の時、トランジスタラジオを聴きながら一真は、かつて送電線保護装置の開発に使用したサイラトロン真空管を連想、「接点のないスイッチができないか。そうなれば寿命一億回の高性能・長寿命の機能部品も夢ではない」と閃いた。

想起すれば“まず、やってみる”。同年5月10日の創業二十五周年記念式典で、「五年以内に無接点スイッチを開発せよ」の指令を出した。
七人の侍」と称される若手研究員が開発に当たったが、トランジスタを使うというだけに、温度の高低で特性が激しく変化した。

当時は、トランジスタをつくる文献はあっても、トランジスタを使うことに対する文献は、日本にはほとんど無かった。ラジオや無線に関するものが大半で、自動制御用のスイッチング動作に使う要求は、立石電機が世界で初めてといってよい。

「いま考えれば、工業用に使うなど乱暴な話だが、立石電機には一真社長の確固たる理念が社員すべてに徹底していた。また研究や生産の若手が何か考えつくと、『面白い、何とかやれ』とチャレンジへ後押しする体質をもっていた」と当時の研究員は言う。立石電機にはOptimism(楽観主義)に対する寛大な空気、チャレンジに対する勇気があった。

企業経営に忙殺される中、京都で一真の生活を豊かにし、楽しくしたのは、1945(昭和20)年代の終わりに入会した「京都経済同友会」と、日曜画家の会である「チャーチル会」の交友だった。父の血を引き、絵が好きであった一真は、幅広い趣味の中でも絵画を第一にあげていたが、そのほかにも謡曲、清元、小唄、俳句、短歌、書道、茶道、さらに演劇、音楽鑑賞などを楽しんでいた。

日本経済が急成長を続けた1955(昭和30)年代、立石電機の企業基盤が着実に構築されていく中で、技術者社長である一真は、拡大する市場のニーズに応えるには研究開発の強化を痛感していた。構想を練り、資金の準備を進め、1960(昭和35)年、京都市郊外の長岡町(現 長岡京市)に「中央研究所」を設立した。

この時の中央研究所への投資総額は、当時の資本金の4倍、2億8千万円にのぼり、“技術屋社長の道楽”と評する人もいた。また一真自身も、このときのことを「まさに清水の舞台から飛び降りる気持ちだった」と述懐している。

しかし、この将来を見通した最新設備への惜しみない投資と、独自に開発した研究開発システムは、若い技術者の育成をうながし、新商品の急速な量的開発を可能にし、オートメーション機能機器先発メーカーの地位をゆるぎないものにした。

さらに、中央研究所でのエレクトロニクスによる電子制御機器・装置の先行開発が、「技術の立石、技術のオムロン」の評価を高めるとともに、後の交通、駅務、金融、流通など多くの情報システムを生み出すことになった。

中央研究所の設立は、次々にその成果を現した。「自動販売機」が街頭に目立ち始めた1963(昭和38)年。一真の指示で121種の食券販売が可能な画期的な「自動販売機」と、「紙幣両替機」が開発された。
わずか一ヶ月余りの日数しかない中で、若い技術者を中心に研究所の総力を結集した昼夜兼行の取り組みが実った。

この技術は新しいニーズを生み、大丸百貨店京都店に、七種類の食券を三種の硬貨使用、かつ硬貨の真贋判別と、釣り銭が出る「多能式自動食券販売機」を開発し納入した。この自動販売機に計算能力と鑑別能力を持たせたことが、一真が先導した“サイバネーション革命(情報システム化)”への第一歩となった。

自動販売機と両替機の新技術は、思いもしないところから評価を受けた。
科学警察研究所からチ三十七号と呼ばれる千円札偽造事件対策として、「ニセ札発見機」の緊急開発の依頼だ。ここでも一真の指揮のもと、わずか8日間で開発。百発百中の鑑別性能に関係者を驚かせた。

この技術への評価から、科警研から車の通過をキャッチする「車両検知器」の開発依頼が入った。“難しいテーマに挑戦することこそ技術者の誇り”と言い続けた一真は、無接点技術とコンピュータ技術を駆使して、車両検知器とともに、車の量によって信号機の時間を制御する「電子交通信号機」までも開発した。

1964(昭和39)年4月、京都河原町三条交差点での実験に成功。これらの努力が今日の交通管制システムとなり、交通戦争とも呼ばれる交通混雑の緩和に大いに役立っている。

「実験中、たびたび激励を兼ねて現場に出掛けたが、どす黒い顔に無精ひげの研究員諸君の顔を見ると、ぐっと胸にくるものがあった。この若い人たちに、命がけの実験をさせるものは何であろう。崇高な使命感であろうか、あるいは義務感であろうか、はたまた創造の喜びあるいは完成の喜びであろうか」(一真

「私はこのような多数の若い人たちを持つことに誇りを感じ、日頃、ともすれば“このごろの若いものは…”と嘆いている人たちに、この若人たちをとくとご覧ぜよと呼びかけたい衝動にかられるのを、どうすることもできなかった」(一真

『ソーシャルニーズの事業化』を掲げ続けた一真の事業理念。ニセ札発見機の開発から始まった交通戦争への挑戦は、『よりよい社会づくり』を謳う立石電機の社憲の精神を具現したものだった。

1963(昭和38)年9月63歳の時、米国視察に出張した一真は、最大手の自動販売機会社と「クレジットカードによる自動販売機」の共同開発というニーズをキャッチした。自動販売機技術の新しい展開だ。
そして、ここでも二年後にクレジットカード並びにデポジットカードシステムの開発に成功。米国全土はもとより国内でも大きく報道された。

この「カードシステム」の技術が基盤になったのが、「キャッシュディスペンサー(CD:現金自動支払機)」や「ATM(現金自動預金支払機)」の開発で、いま一連の自動機システムは、今日の金融機関の業務に画期的変革をもたらしている。

一方、食券販売機の技術は、鉄道輸送の大量化、近代化の波の中で、切符の販売機として注目を集めた。1965(昭和40)年、国鉄(現 JR西日本神戸駅に「多能式自動券売機」として納入。同時に改札業務の自動化のニーズが生まれ、近畿日本鉄道と共同で自動改札装置を開発した。

1967(昭和42)年67歳の時、大阪万国博覧会の開催を三年後に控え、開発が進む千里丘陵に新設された阪急電鉄北千里駅に、多能式自動券売機、カード式定期券発行機、自動改札装置を組み合わせた世界で初めての「無人駅システム」を実現させた。以降、都市を中心に全国の駅に普及した。

1952(昭和27)年、西勝造から“サイバネティックス”を教えられた一真は、健康管理を合理的にするため、健康度合いを測定するという技術者魂に点火。サイバネティックスの生体に対する適用の広範な展開を「健康工学」と名付け、生体の健康管理と病気の診断をサイバネーション技術で、一連のシステムエンジニアリングとしてまとめることをめざした。

診断のための各種測定器の研究開発、さらに生体機構に密着した全く新しい計測法の開発に挑戦。こうした展開の健康工学の研究は、後年、「株式会社ライフサイエンス研究所(現オムロン・ライフサイエンス研究所)」の設立に至った。

一真の健康・福祉に対するバックボーンは、『サイバネティックス』と『企業の公器性』の両輪から成り立っている。世界的な社会問題となったサリドマイド障害児が学齢期を迎えたころ、近畿圏のライオンズクラブでは「サリドマイド児に手を与える運動」を展開した。義手の開発依頼を受けた一真は、さっそく徳島大学医学部整形外科との協力体制をとり、研究に着手。一年余りの歳月を経て開発に成功した。

初めて電動義手をつけた障害児が、義手の指先に握ったチョークで黒板に、字や図形を書いたところを見て一真は、技術者としてまた経営者として、このテーマに携わったことに誇りと満足を覚えた。この感動的な場面は、NHKテレビ「あすをひらく」で“手ができた”というタイトルで放送され、社会的に高い評価を得た。

このような研究やテーマへの協賛を続けたことは、立石電機の社憲の精神、即ち『企業の公器性』に基づくものであり、二年後、この研究により一真徳島大学から医学博士号を受けた。

1970(昭和45)年70歳の時、「最適化社会」「自立社会」を予言する「シニック理論」を発表した。1971(昭和46)年、一真は、福祉法人「太陽の家」の中村裕医学博士と作家の秋山ちえ子さんから、重度身体障害者の社会復帰のための専門工場建設、運営の援助依頼を受けた。

折から日本経済に大打撃を与えたドル・ショックの直後であり、折り悪く三つの工場を建設中。なかなか難しい問題だったが、「よりよい社会をつくりましょう」という社憲の精神と、常に易きにつかず、難きに挑戦するという性(さが)から、福祉工場「オムロン太陽電機株式会社」の設立を引き受けることにした。

「創業式で、挨拶をせねばならぬ立場にあり、気が重かった。気の毒な境遇の人たちを、まともに正視できるかどうか心配でもあった。しかし、そんなことはものの五分もたたぬうちにすっかり忘れてしまった。さあやるぞ! といわんばかりの意欲のみなぎった顔がいっぱいで、工場が実に明るかったからだ。フレンチ・ブルーの作業服にオムロンのマークを胸につけた二十八歳の吉松工場長が、車椅子で前に出て、りりしいあいさつをしてくれたのを聞いて、私は胸が熱くなる思いであった」(一真

1972(昭和47)年 大分県別府市で操業開始。以降、順調に業績を伸ばし、創業以来の黒字健全経営を続けている。誕生して十四年経った1986(昭和61)年には、立石電機の本社がある地元 京都に「京都オムロン太陽電機」を設立創業。多くの重度身体障害者に働く場を提供している。

1972(昭和47)年72歳の時、京都財界が設立した日本初のベンチャーキャピタルの社長に就任。その第2回投資先の「日本電産」は後にハードディスク・ドライブの世界トップ企業となった。

ソーシャルニーズの先取り事業化、技術先行型企業を指向の立石電機を、オートメーション機器から情報システムメーカーへ飛躍させた一真は1979(昭和54)年79歳の時、立石電機の売上1000億円を機に、46年間にわたる社長の座を長男 孝雄(1995平成7年に逝去)に譲り、会長に就任した。

会長となった一真は、1983(昭和58)年、創業五十周年の年頭、「大企業の仲間入りをした立石電機は、“大企業病”にかかっている。大死一番(一度死んだつもりになって奮起すること)、意識革命に徹し、創業の精神に還り、徹底的分権により中小企業的な組織と簡潔な制度で活性化を図ることこそ、五十周年にふさわしい大仕事である。全員でこれに挑戦してほしい」と指示した。

これを受け立石電機では、全社あげて「“大企業病”の一掃」をテーマに、次なる半世紀への挑戦に向かった。この一真の“大企業病”という企業診断は、新聞、雑誌などで紹介されると一気に社会に広がり現在、経営用語さらに日用語として使用されるほど本質を鋭く突いたものだった。

「私の“大企業病”が、その年の秋には日用語化したが、ここまで有名になるとは、私自身考えてもいなかったので、初めはいささか驚いた。が、考えてみれば、世の中には“大企業病”に悩まされている会社がたくさんあるのだから、マスコミが取り上げるのも当然であった。ただし、私といえども、ただ不用意に外に向かって『わが社は大企業病にかかっています』などと恥を話すはずはない。十分に対策を練り上げて、成算があったからこそ話題にしたのである」(一真

大企業病”克服に「企業家精神の復活」を説いた一真の思想とその実践は、「永遠なれベンチャー精神」のタイトルで出版され、その後、英語版、中国語版、ロシア語版でも発刊され、世界で読まれる経営バイブルとなった。

1988(昭和63)年、一真は取締役相談役に就任。併せて会長に長男 孝雄、副会長に次男 信雄、社長に三男 義雄がそれぞれ就任した。相談役としての一真は、立石電機の行く末を脳裡に描きながら、1990(平成2)年1月、立石電機から「オムロン株式会社」へ社名変更した。

1990(平成2)年、新生オムロンのスタートと機を同じくして、一真は私財のオムロン株式百五十万株を拠出し、「財団法人 立石科学技術振興財団」を設立。長年の夢であった地道な科学技術の研究を支援する活動を開始した。

それは、社会の新しい芽の育成であり、日本はもとより、世界の中から人とテーマを選び、一真の経営理念である「機械にできることは機械に任せ、人間はより創造的な分野で活動を楽しむべきである」への、さらなる前進に向けて──。

1990(平成2)年9月20日。一真90歳の誕生日。満での卒寿を迎えた。振り返ってみると、立石電機製作所を創業して57年間、「はろけくもきつるものかな」の感ひとしおであった。一真は、1991(平成3)年1月12日亡くなった。

1955(昭和30)年に、その頃まだ日本にかなったオートメーションのマーケットを開発するというベンチャーリングを始め、ソーシャルニーズを捉えて、それを研究開発する、いわゆるR&D先行の企業と称えられながら、1955(昭和30)年の年商2億4千万円から、年商3500億円の企業に育ててきた。しかもこの間、社会への奉仕は大なるものがあった。

「はろけくもきつるものかな」の旅は、終った。しかし、その身をもって語り伝えた精神は、グローバル経営者の心の中にはるかに絶えることなく、生き続けるだろう。

立石一真は、常に新たな機会への挑戦を続けた技術系経営者であり、社会事業への広い視座、芸術・芸能への深い造詣、人生の達人ぶりなどを考えあわせると、明治びとの気骨をもった『前衛企業家』といえる。

社会のお役に立とう──の信念から、他の人の考えつかぬInnovationを次々と手掛け、常人の考え及ばぬ経営手法を創設し、しかもそれらに、見事なほどのネーミングの妙まで示してみせる。これほど数多くの事象を試み、そのすべてを独自のものとして事業に穫り込む、その凄まじさは、比すもののない人生舞台であり、創りに創った生涯だった。


立石一真のことば
  「創造的でない労働は機械によってオートメーションする」
  「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」


立石一真のDVD
  プロジェクトX 挑戦者たち 第3期 Vol.6 通勤ラッシュを退治せよ [DVD]プロジェクトX 挑戦者たち 第3期 Vol.6 通勤ラッシュを退治せよ [DVD]

  
  


立石一真の本
  企業家精神の復活―立石一真経営語録
  立石一真の経営革新塾
  人を幸せにする人が幸せになる―人間尊重の経営を求めて
  私がオムロンで修めたリーダー訓800―心を打つ短文
  「想い」を実現する会社「オムロン」―持続する経営理念がシステム革新につながる