負けじ魂の強かった人

長岡半太郎

きょうは世界初の原子模型を発表した物理学者 長岡半太郎(ながおか はんたろう)の誕生日だ。
1865(慶応元)年生誕〜1950(昭和25)年逝去(85歳)。

肥前大村城下(現 長崎県大村市)の旧家 長岡家に一人っ子として生まれる。祖父 尚平は「大村藩第一の詩人」と賞賛され、父 治三郎は幕末大村藩血盟勤皇三十七士の一人として功を立て明治政府に仕えた先覚者であった。

半太郎は幼時、父から漢学を習い、10歳で一家とともに上京して本郷湯島小学校に入学、共立学校(現 開成高校)を経て東京英語学校に入学した。父の転勤に従って大阪英語学校・大阪専門学校に転じたが、1880(明治13)年東京に戻り、大村の先輩の家に書生として寄寓し、大学予備門(旧一高)に学んだ。
当初、植物学、歴史学を志したが満足できず、未知の世界を探究する物理学を専攻することにした。1887(明治20)年、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業した(卒業生は一人だった)。このとき、外人教師ノットに随行して日本全国の地磁気測量に従事し、大学院に進学して、磁歪(じわい:鉄やニッケルなどに強磁場を与えるとわずかに変形する現象)について精密な実験研究を開始した。
1888(明治21)年母校の実験指導嘱託を兼ね、1890(明治23)年母校の助教授となった。

半太郎の時代は、物理学においては実証主義が支配的であった。そのため、原子や分子の存在を仮定して議論を進めることは科学者のとるべき態度ではないとされた。しかし半太郎は「仮定から導きだされる結論が実際の現象とよく合致する場合には、その仮定を正当なものとして認めるべきだ」として、当時ヨーロッパで花開いたばかりの原子物理学の世界に踏み込んでいった。

1893(明治26)年28歳で理学博士となりドイツへ留学、ヘルムホルツプランク、フオックス、シュワルツ等に数理物理学を学んだ。一時オーストリアに転じてボルツマンに学んだ。三年の留学生活を終え、1896(明治29)年に帰朝し、物理学教授になった。

1900(明治33)年35歳の時、初めて国際物理学会がパリで開催され、招かれて“磁歪”について講演した。
また、原子の構造とその安定性に関する研究を始め、1903(明治36)年12月の数学物理学会に「土星型原子模型」を提出し、さらに原子スペクトルの微細構造の実験研究を始めた。

1905(明治38)年に学士院会員となった。1910(明治43)年45歳、東北大学開設の時、自ら理学部に転じようとしたが、東京大学側の無理な引き留めで果たさず、本田光太郎が代わって行った。1917(大正6)年52歳の時、理化学研究所主任研究員となり、1925(大正14)年60歳で大学を退官し名誉教授となった。

1931(昭和6)年66歳で、大阪大学開設と共に初代総長に就任、理学部を設立し、湯川秀樹朝永振一郎素粒子グループを育成した。1934(昭和9)年、総長を同郷の楠本長三郎医学博士に譲り、名誉教授となって以後は、もっぱら理化学研究所で研究を続けると共に、貴族院議員としても活躍した。

1939(昭和14)年、学士院々長、日本学術振興会理事長となり、学会の大御所、世界有数の物理学者として尊敬されたが、1950(昭和25)年 自宅の書斎で地球物理学の研究中に逝去。机の上には、物理学の本が開かれたままだった。

なお、半太郎の妻・操子は司法官僚 箕作麟祥(みつくり りんしょう、蘭医 箕作阮甫 げんぽの孫)の三女であり、操子との間に3男1女をもうけた。長男 治男は元理化学研究所理事長、次男 正男は元日本光学工業社長、三男は夭折、長女 フミは学者 岡谷辰治に嫁いだ。
操子の死後、平川かねの妹登代と再婚し、登代との間に5男をもうけた。四男 順吉は元東京水産大学教授、五男 遼吉は嵯峨根家の養子となり実験物理学者となった。他に六男 鉄吉(元帝国人絹勤務)、七男・冠吉、八男・振吉がいる。

理論物理学を世界的水準にまで高めた業績と門下育成は、まことに偉大だ。
半太郎は剛腹(ごうふく:強情で人に従わない)な性格、そして負けじ魂の強かった人で、「雷親爺」のニックネームで門下から恐れられていた。明治以後の日本の代表的な物理学者の大半はその門下として指導を受けた。本多光太郎・寺田寅彦仁科芳雄湯川秀樹朝永振一郎らの生みの親といっても過言ではない。

京大の学生であった湯川秀樹は、 朝永振一郎(大村出身の哲学者 朝永三十郎の子息)と共に「物理学の今昔」という半太郎の講演を聞いて、「先生の情熱と、世界的大学者にふさわしい見識の高さに敬服し、原子の問題は古典物理から量子論によって解決すべきだという話に非常な刺激を受けた」と述べている。

半太郎の見識の広さを示す証拠の一つがノーベル賞の推薦である。半太郎は戦前において7回の推薦を行い、そのすべての推薦者がノーベル物理学賞を受賞した。頻繁に国際学会へ出席し、国際的な栄誉を数多く受けていたことが、長期にわたって推薦者の地位を得られた理由のようだ。

半太郎は、決して日本人に肩入れするような推薦を行わなかったが、1940(昭和15)年、初めて世界に紹介できる業績として湯川秀樹の中間子論を挙げた。推薦状の中で「今回、初めて同国人を推薦できる。しかもそれは十分に自信を持ってである」と述べている。

半太郎は自ら死ぬまで精密な高等数学を用い熱心な観察実験を続けて多数の研究論文を発表したが、「学者は本など書く暇はあろうはずはない」といったように、著書はわずかに「物理学現今の進歩」、「田園鎖夏漫録」、「原子時代の曙」の三冊しかない。

1910(明治43)年頃、横須賀の古い建物を買い、別荘として、東京から定期蒸気船に乗って訪れ、泳いだり山に登ったりした。1981(昭和56)年、生前の功績をしのび、別荘のあった場所に記念館が建てられた。広大な敷地内の館内には、博士の遺品が展示されている。庭には「鬼の机」という石造りの机が置かれ、座ると頭が良くなるとあり、半太郎愛用の机だった。

長岡半太郎は、明治から昭和にかけての日本が世界誇る科学者である。当時の科学者がどのような立場でどのような評価を受けていたかは想像できないが、少なくとも現代よりも虐げられた生活をしていたことは確かだ。そのような時代においても、真理を追究してやまない科学者魂には頭が下がる思いがする。

企業においても、あまり陽のあたらない部署とか部門に配属される場合がある。どのようなところであっても、その中で最高の業績をあげたり優れた提案をすることは難しい。悔やんだり恨んだりする前に、実績を上げることだ。

★業績★
理論・実験の両面のあらゆる分野にわたり、磁気学・弾性論・流体力学・分光学・電磁気学放射能・原子論から、気象観測・測地学・度量衡などのすぐれた研究がある。
当時の貧弱な設備と、世界の学界についての情報の不足、産業軍事方面の技術偏重などの時代に、世界的水準を目ざした研究功績は特筆すべきことである。 ●磁気学については、イギリス人教師の移入をうけついで、大学在学中から強磁性体における磁気歪みの現象について研究し、大学院時代の1888(明治21)年 ニッケル線の磁気がストレスと捩れによって変化するという論文を発表して欧米の学界の話題を賑わした。 翌年 鉄は逆磁性にならないことを唱え、さらに鉄鋼ニッケル線の捩れによる瞬間電流の論文は、1900(明治33)年 パリ万国物理学会議に報告されて、世界的注目をうけ万丈の気を吐いた。 ●地震学については1891(明治24)年 助教授時代、濃尾大地震直後に地磁気測定を行って等磁気線の変化について発表、翌年 震災予防調査会委員となり、1900(明治33)年 岩石の弾性常数の研究、1905(明治38)年 地球の剛性や地震波伝播の研究、翌年には余震の研究を発表し、今日の世界に冠たる日本地震学の基礎を作った。 そのころ東京・ポツダムの重力比較も行った。また測地学委員会・万国度量衡会議委員として国際的に活動した。 ●半太郎を最も有名にしたものは原子構造論である。
はじめ原子スペクトル放射研究から原子の世界に近づいたが、当時世界的にもX線ラジウム発見や、イギリス人トムソンの電子論、ドイツ人プランク量子論が出て関心が高まっていた。 半太郎は1903(明治36)年12月、世界で初めて土星型原子模型理論をイギリスのフィロソフィカル・マガジンに発表した。原子は中心に陽電気を帯びた質量の大きい粒子があり、その四周に陰電気を帯びた質量の小さい電子がたくさん並んで土星の環のように同じ速度で回転しているというのであった。 この発表から4か月後1904(明治37)年3月イギリスのトムソンの原子模型論が出て、陽電気を帯びた球形の雲のようなものの中に陰電気を帯びた電子が浮いているとした。一流の大学者でこの説の支持者が多いのに対し、ポアンカレーなど一部の学者以外は長岡説を無視した。 しかし、7年後の1911(明治44)年トムソンの門下ラザフォードの原子核模型の実験や、1913(大正2)年ボーアの模型研究の結果は、かえって長岡説こそ正当であることが証明され、今日の定説となった。
今日学ぶ原子模型の元祖は日本人長岡半太郎の考案であることを誇りとしたい。 そしてこの刺激で世界中は、電子運動や崩壊について研究し、サイクロトロンの発明や中性子・陽子・中間子などの発見へと進み、ノーベル賞受賞者としてわが湯川・ 朝永の名が世界の学界の先頭に掲げられるようになった。 ●分光学については原子スペクトルの研究論文が、大正・昭和にかけて80も発表されたが、それ以前にも水銀スペクトルのゼーマン効果・放射スペクトルとその瞬間撮影・分光学的微量分析・対物鏡における光の回折理論などの研究を行い、電気光学の産業開発に貢献する所が多い。 ●半太郎の晩年は、電波の伝播研究から地球物理学に没頭し、地震帯・火山帯・地球の形態・氷河などの研究を死の直前まで続けた。
このほか数理物理学では大正のころ、楕円積分の数値表、電流の誘導係数計算表などを案出した。 一方、研究器具装置の試作にも興味をもち、理研の技術者に独自のアイデアを与えて作製させた。主なものとして、マイクロバログラフ・分光学用電磁石・干渉分光器・水晶棒集光器・干渉マリメータープリズム・鋭感マグネトグラフ・高光度分光写真機・新カドミウム灯・タングステン振子・シリカグラス振子などがある。



長岡半太郎のことば
  「何々になろうとする者がおおいが、何々をしようとする者は少ない」
  「常に小成に甘んぜず、無為平凡に陥らず、つねに奮起せよ」
  「早熟な学校秀才には創造性を期待しえない」
  「一に研究者、二に研究者、三に研究者、四に設備」


長岡半太郎の本
  長岡半太郎―原子力時代の曙 (人間の記録 (83))
長岡半太郎―原子力時代の曙 (人間の記録 (83))