極限まで出し切ろうとした

サン=テグジュペリ

きょうはフランスの飛行士で「星の王子さま」を書いた アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Roger de Saint-Exupéry)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1944(昭和19)年逝去(44歳)。

フランスのリヨンで5人兄弟の3番目として生まれる。父はジャン=マリ・ド・サン=テグジュペリ伯爵、母はマリ・ボワイエ・ド・フォンコロンブ。1904年4歳の時に父を亡くすが、母方の保護を受けてサン=モーリス・ド・ルマンとモーリスの古い城館で少年時代を過ごした。

子供の頃は大変なわんぱくで、新しい遊びを考えついては、いつも家の中を走り回っていた。1909年9歳の時、姉 マリー=マドレーヌ、シモーヌ、弟 フランソワ、妹 ガブリエルと共にル・マンに転居した。そして父の母校、ノートルダム=ド=サント=クロワ学院に入学した。
1912年12歳の夏休みに、近くのアンベリュー飛行場で国民的英雄だったジュール・ヴェドリーヌに初めて飛行機に乗せてもらった。その飛行体験の詩を書き、先生に褒められた。また1914年 作文の時間に書いた「ある帽子のオデュッセイア」が、校内の最優秀作文賞に選ばれた。
第一次世界大戦の勃発により、ノートルダム=ド=モングレ学院に転校した。

1915年15歳の時、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院に寄宿生として入学した。ここでバルザックボードレールドストエフスキー等を読み、詩作や寸劇の脚本を書き始めた。1917年 弟フランソワが亡くなった。海軍兵学校受験準備のためパリへ行った。しかし、机に向うのが嫌いで、3年も受験勉強をしたが、結果は不合格だった。

1920年 美術学校の建築科に入学したが、そこでも才能は認めてもらえなかった。1921年 兵役に召集され、ストラスブールの第2航空連隊に入隊した。その後モロッコのラバトにある第37飛行連隊に転属し、1922年までに民間操縦士と空軍操縦士の資格をとった。

1923年 曲技飛行中に不時着事故で頭蓋骨を骨折、除隊となった。婚約者ルイーズ・ド・ヴィルモランとその家族の反対で操縦士になることを断念。そしてタイル製造会社に業務検査員として入社するが、婚約は解消された。

1924年 トラック製造会社に転職し、販売員として働くが、売れたトラックは1台だけだった。
1926年 処女作「飛行家」が雑誌に掲載された。アエリエンヌ・フランセーズ社で遊覧飛行のパイロットとして臨時採用された。

アフリカ、南米への航空郵便の新路線競争が激しくなり、「ラテコエール航空会社」に操縦士として採用された。1927年 ツゥルーズとカサブランカ間、次いでカサブランカダカール間の航空郵便物輸送にあたった。そして中継基地キャップ・ジュビーの飛行場長となった。

1929年 航空郵便の飛行士としての体験を書いた「南方郵便機」出版。また「夜間飛行」がアンドレ・ジッドの序文を付けて出版され、作家としての成功を掴んだ。これは英訳され、映画化もされた。
1930年 アンデス山脈に不時着した同僚ギヨメの救出にあたった。同年、アルゼンチンでコンスエロ・スンシンと出会い、1931年31歳で結婚した。

アルゼンチンの郵便飛行会社の支配人となり、ブエノスアイレスとプンタアレナス間の郵便路線を開いたが、親会社に内紛が起こり、地位を失った。その後、カサブンランカとポールテチェンヌ間等の郵便輸送に従事した。

1933年 国内のすべての航空会社が合併して「エール・フランス社」が発足するが、内紛騒動の中傷で、サン=テグジュペリは入社を拒否された。そこで、航空機製造会社になった「ラテコエール社」のテストパイロットになった。水上機の着水ミスで辛うじて脱出するが、これで解雇された。
1934年 エール・フランス社の宣伝課に入った。サイゴンまで長距離飛行をするが、メコン川で不時着事故を起こした。

1935年 「パリ=ソワール」誌の派遣記者としてモスクワに1ヶ月滞在した。脚本を書いた映画「アンヌ=マリー」が成功を収め、これらで得た金をすべてつぎ込んで最新のシムーン型機を購入、この飛行機で各地を講演してまわった。12月29日朝、15万フランの賞金がかかったパリとサイゴン間の最短記録に挑戦して飛び立ったが、夜リビア砂漠に不時着して3日後に隊商に救出された。

1936年8月、「ラトランシジャン」誌の特派記者としてスペイン内乱を取材。1937年2月、カサブランカ-トンブツク-バマコ-ダカールサハラ砂漠を経由する路線を調査した。4月、「パリ=ソワール」誌の特派記者として再びスペイン内乱を取材。8月、ナチズムの行為を見るためにドイツに飛ぶが、警戒が厳しくほとんど目的を果たさずに帰った。

1938年 ニューヨークとチリのホーン岬の長距離飛行に挑戦した。グァテマラでラ・アウローラ空港離陸時に事故を起こし、全身8ヶ所の骨折をした。

1939年3月、自動車でドイツを旅行。7月、「人間の土地」出版でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞した。同7月、友人ギヨメの飛行艇での大西洋横断飛行に同行。8月には「人間の土地」英語版宣伝のため、アメリカを訪問し、ニューヨークでリンドバーグ夫妻に会った。しかし、戦争の危機を感じて、急遽帰国。9月対ドイツ開戦。召集され予備大尉となり、偵察飛行大隊に配属された。

1940年5月、フランス軍大敗。除隊になり帰国。11月、ギヨメが遭難死した。
アメリカの出版社からの要請やレオン・ウェルトの助言があって、参戦を促すためアメリカに向かい、大晦日、ニューヨークに着いた。その後、パリがドイツに占領され、米国に亡命した。

ニューヨークでは、亡命フランス人同士の派閥争いと中傷合戦に巻き込まれ、論議や駆け引きが苦手な彼は、悪意のうわさや中傷で、孤立してしまった。そんな苦しい亡命生活の中で、1942年 ニューヨークで「戦う操縦士」を出版した。原稿の清書はディクタフォンという音声記録器に録音し、それを秘書がタイプした。

「戦う操縦士」の英語版は「アラスへの飛行」で、ベストセラーとなった。フランスではドイツの検閲を受け、「この愚かな戦争を始めたヒトラー」という部分を削除して出版されるが、親独新聞から一斉に攻撃され、翌年には発売禁止になった。

1942年11月、フランス全土がドイツの支配下に入った。12月、日本の真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。サン=テグジュペリは涙を流して喜んだ。
この夏、「星の王子さま」に着手。挿し絵と平行して執筆が進められたため、書斎はアトリエに一変した。そして、1943年4月6日、「星の王子さま」出版。

星の王子さまの初刷りを持って、ニューヨークから北アフリカの連隊へと向かう船の中で、彼はこう語った「戦争が終わったら、ソレームの修道院に入りたい」
そして話の終わりはいつも賛美歌をくちずさんだ。 

1943年 志願して民間人資格のまま、偵察飛行大隊に復帰、サルディニア島アルゲーロ基地に配属され、少佐に昇進。フランス上空への偵察任務についた。8月、エンジン故障で引き返し、操作ミスによる着陸事故のため予備役に回された。

1944年7月31日、彼は、地中海・コルシカ島ボルゴ基地から1人乗りの偵察機で飛び立った。任務は、1万メートルの高空から適地を撮影することだったが、彼の乗った偵察機はついに帰ってくることはなかった。

地上に残した彼の最後の言葉は「ドレス・ダウン6号よりコルゲートに、滑走離陸してよろしいか」であった。ドレス・ダウンとは裸馬の意。彼の死亡については当初不明とされ、後にいろいろな説が出てきているが、ほとんどは結局不明としている。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、文学的な才能はあるのだが、飛行機の操縦に異常な興味を持ち続けた。世渡りは下手で、社交界にも、論議好きの知識人グループにも馴染めず、その上金銭感覚にも乏しく、借金ばかりが増えたようだ。彼は飛行機事故が多いのだが、勇敢で飛行機の性能を極限まで出し切ろうとしたのではないか。

企業においても、失敗が多い人がいるが、そのような人こそ企業にとって必要とされる人かもしれない。小さなミスは見逃せないが、少々の失敗は原因をはっきりさせるだけでよい。何もしなければ失敗はありえないし、進歩も無い。


サン=テグジュペリのことば
  「神とは事物を結び合わせる聖なる結び目である」
  「本当のことは心でしか見えない。一番大切なことは目には見えない」


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サン=テグジュペリの本
  星の王子さま―オリジナル版
  夜間飛行 (新潮文庫)
  戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
  サン=テグジュペリの生涯
  「星の王子さま」の誕生:サン=テグジュペリとその生涯 (「知の再発見」双書)
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