真剣かつ力強く生きる

平櫛田中

きょうは百歳を越えてなお現役彫刻家として活躍した日本近代彫刻の巨匠 平櫛田中(ひらぐし でんちゅう、本名:田中倬太郎 たくたろう、号:平櫛田中 平櫛家の養子となり二つの名字を合わせた)の誕生日だ。1872(明治5)年生誕〜1979(昭和54)年逝去(107歳)。

岡山県後月郡西江原村(現 井原市西井原町)に生まれる。13歳まで井原市で育った。その後、広島県沼隈郡(現 福山市)の養子先 平櫛家に移り、大阪の小間物屋に丁稚奉公に出るなどして苦労した。

1893(明治26)年21歳の時 大阪の人形師 中谷省古に弟子入り、木彫の手ほどきを受け彫刻の道を志した。翌年、胸部疾患のため修業を中止し、しばらく静養したのち、1897(明治30)年25歳の時 上京し高村光雲の門に入った。
以後、光雲門下の山崎朝雲米原雲海の仕事を見て、自ら学んだ。この頃、寛永寺奥寺で西山禾山(かざん)老師の提唱(教えの根本を提示して説法すること)を聞き深く感銘した。

1907(明治40)年35歳の時 岡倉天心を会長に朝雲、雲海らと「日本彫刻会」創立に加わり、第1回展に「活人箭」を出品して岡倉天心に認められた。

天心歿後は、1914(大正3)年42歳の時 横山大観を中心として再興された日本美術院に彫塑部主宰として参加し、佐藤朝山、石井鶴三、戸張孤雁、中原悌二郎らの新鋭を同人に迎えた。その後も日本美術院彫刻部の重鎮として活躍し、1961(昭和36)年の解散まで発表を続けた。

その後、1937(昭和12)年65歳で帝国芸術院会員となった。1944(昭和19)年72歳で 東京美術学校(現 東京芸術大学)教授、帝室技芸員日本芸術院会員を歴任。1962(昭和37)年 文化勲章を受章。1965(昭和40)年 東京芸大名誉教授。

1969(昭和44)年には郷里井原に市立田中美術館が設立された。最晩年を過ごした屋敷は、現在 小平市平櫛田中館となっている。1971(昭和46)年、白寿を記念して「平櫛田中賞」が設定された。

90年にもわたる創作活動の中で、日本の伝統的な木彫と西洋彫塑のリアリズムを融合させた独自の世界感を持った特徴的なフォルムで多くの人を魅了した。1979(昭和54)年12月30日小平市の自宅にて永眠。107歳の長寿をまっとうした。

1958(昭和33)年には20年に及ぶ歳月を費やした大作「鏡獅子」(国立劇場正面ホールに設置)を発表するなど生涯を彫刻に捧げた。
主な作品に「転生」(1918年46歳)、「五浦釣人」(1943年71歳)、著書に「私の歩いてきた道」(1973年101歳)などがある。

田中は生涯で二人の人間に出会わなければ彫刻家としての自分はなかったという。一人は天心、もう一人は禾山和尚である。田中は天心と出会う前に禾山の提唱を聞いて禅の精神世界の深さに感銘を受けている。
食えない時代に「売れない彫刻を作れ」といって、禅の公案(工夫させるための課題)を木彫にするヒントを与え、さらに近代彫刻の方向へ田中の背中を押したのが天心だった。

平櫛田中の偉大さは、その芸術性の高さはもちろんのこと、107歳で大往生を遂げるまで、まるで青年そのままの創作意欲を失わなかったことにある。また、名声に甘んじることなく、迷わず、まっすぐに己の道を歩み続けようとする、ひたむきな生きざまにある。

その作品に、ほとばしるほどの生命力を感じさせるのは、一刻一刻、魂を込めた創作活動ゆえの成せる技であり、「いま」を真剣かつ力強く生きることの大切さを、圧倒的なパワーで投げかけてくる。


平櫛田中のことば
  「 今日もお仕事、おまんまうまいよ、びんぼうごくらく、ながいきするよ 」
  「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から、
    わしもこれからこれから」
  「いまやらねばいつできる、 わしがやらねばたれがやる」
  「そう簡単に長生きの秘訣なんてあるもんじゃありません」


平櫛田中の作品
   
  禾山笑          幼児狗張子         試作鏡獅子