世情の記録者となった

獅子文六

きょうは小説家、劇作家、演出家 獅子文六(しし ぶんろく、本名:岩田豊雄)の誕生日だ。
1893(明治26)年生誕〜1969(昭和44)年逝去(76歳)。

神奈川県横浜市弁天通に貿易商 岩田重穂の長男として生まれる。慶応義塾幼稚舎・普通部を経て、1913(大正2)年 慶應義塾大学文学予科中退。1922(大正11)年29歳の時から3年間、父の遺産で演劇研究のためフランスに滞在した。
妻 マリイ・シューミイを伴って帰国した。

1927(昭和2)年34歳のとき、岸田国士の勧誘で文芸春秋経営の「新劇協会」に参加、演出家として世に出るが、菊池寛と意見を異にし、岸田らと「新劇研究所」を創設した。のち解散、関口次郎らと「喜劇座」を旗揚げし、演劇活動を開始した。
1937(昭和12)年44歳の時、久保田万太郎岸田国士らと「文芸座」および「文学座アトリエの会」を創設、劇作、演出に尽力し、「改造」「三田文学」などに戯曲・演劇評論を執筆した。企画者としての功績が光った。
獅子文六の筆名は、「44歳の文豪」をかけて「しし ぶんろく」とした。

1942(昭和17)7月から12月まで本名で「朝日新聞」に、真珠湾攻撃で戦死した特殊潜航艇の九勇士の一人横山正治をモデルとした小説「海軍」を連載、緒戦時の昂揚のなかでひろく愛読された。
1948(昭和23)3月に追放の仮指定を受けたが5月に解除された。

一方、演芸評論集「近代劇以後」、ユーモア小説「金色青春譜」、「西洋色豪伝」を発表、作家としての地位を確立した。
はじめての新聞小説悦ちゃん」は家庭読み物として好評を博し、劇化、映画化されるにおよび作家としての地位を確立した。これにより家庭的ユーモア小説に新境地を開いた。

数紙の新聞や婦人雑誌、若者向けの雑誌などに連載を始めて人気が出た。幅広く活動したストーリーテラー(storyteller:筋の運びのおもしろさで読者をひきつける小説家)兼、戦時中から戦後にかけての世情の記録者となった獅子は、上品なユーモアと洞察に裏付けられた筆致で、人々の生活を豊かに生き生きと描写した。

61才の時、3度目の妻 幸子との間に長男 敦夫をもうけた。
1953(昭和28)年60歳で芸術院に加入を認められ、1963(昭和38)年70歳のとき芸術院賞受賞、1969(昭和44)年には文化勲章を受章したが、一ヶ月後の12月13日76歳で亡くなった。

作品として、「達磨町七番地」「青春売物日記」「信子」「東京温泉」「一号倶楽部」「てんやわんや」「自由学校」「箱根山」「大番」等々がある。小説「自由学校」は二度にわたって映画化された。またフランス近代劇の紹介に多大の功績がある。

獅子文六は、ユーモア小説というイメージがあるが、本来は「海軍」のような本格小説が書きたかったのだろうか。どちらにせよ、戦後の荒廃を見る中で人の心を楽しく明るくするためにユーモア小説を手がけた気持ちはわかるような気がする。作品をよく読めば本来の思いが伝わってくるかもしれない。

企業においても、自分のやりたい仕事があるのだが、方向の違った内容の仕事をせざるを得ない場合がある。企業の場合は存続することが前提であるからだが、それでもやりたい仕事に思いを持ち続ければ、いつかはその思いがかなうはずだ。


獅子文六のことば
  「学者は無駄な事を考え、無駄な事を発表しないと、学者らしくない
    ことになっている」
  「一流の人物というのは、ユーモアのセンスを必ず持つ」
  「男が女に慣れるのは、結婚生活が、一番の早道である」
  「漁色家は、案外、女を知らない」


獅子文六のビデオ
  自由学校 [VHS]
  てんやわんや [VHS]


獅子文六の本
  大番〈上〉(下)
  てんやわんや (毎日メモリアル図書館)
  娘と私 (新潮文庫 草 73E)
  山の手の子 町ッ子―獅子文六短篇随筆集
  獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ
獅子文六先生の応接室―「文学座」騒動のころ山の手の子 町ッ子―獅子文六短篇随筆集てんやわんや (毎日メモリアル図書館)大番〈上〉