”火の玉”とも見えるように

三島海雲

きょうは初恋の味・カルピスを創った 三島海雲(みしま かいうん)の誕生日だ。
1878(明治11)年生誕〜1974(昭和49)年逝去(96歳)。

大阪府郊外の箕面市の貧乏寺 西本願寺派の教学寺住職の子として生まれた。三島は京都の仏教学校を経て、東京の佛教大学編入、1902(明治35)年24歳の時、佛教大学から日本語教師として北京に派遣された。三島は、西本願寺の総帥 大谷光瑞(おおたに こうずい)の門下生だった。

三島は中国人に日本語を教える一方、中国語を学んだ。そこで知り合ったのが、当時日本の山林王といわれた人物の息子 土倉五郎だった。土倉は刺激を求めて日本を飛び出して北京に来ていた。ふたりの若者は意気投合し、「日本という国を中国に知ってもらいたい」と、中国での事業計画を立てた。
三島は1903(明治36)年25歳の時、土倉の資金援助で北京に「日華洋行」を設立した。教壇から降りた三島は、商売の基本を身につけるため、北京の街を行商して歩いた。三島の努力は実を結び、1年経つ頃には経営も軌道に乗り始めた。

次に手掛けたのは、軍馬の調達だった。ちょうど日露戦争が始まり、陸軍はいくらでも馬を欲しがった。三島はモンゴルに赴き馬を買い集めた。何度となくモンゴルを訪れるうちに、モンゴルの王族や貴族と親しくなった。

戦争も終わり、1908(明治41)年30歳の夏、三島は内蒙古のケシクテンで、貴族のパオ(天幕)に泊めてもらった。長旅で体調を崩し不眠症になっていた三島は、この地方の食べ物で、牛乳のクリームを発酵させたものに砂糖を加えた「ジョウヒ」という乳酸発酵物を毎日摂った。
すると次第に胃腸が整い、体重も増え、夜も眠れるようになった。三島は、「不老長寿の霊薬に遭遇したようだ」と、この飲み物に強く引かれた。

「ジョウヒ」は蒙古人たちが住むテントの家の入口の大瓶に入れてあった。彼らは毎日瓶を棒でゆっくりとかき混ぜては乳を飲み、飲んだ分だけ新たに乳を追加していた。乳が一昼夜経つと乳酸菌が自然に繁殖すること、そしてその菌が人間に有益だということを、蒙古人たちはメチニコフ(ロシアの生物学者)がノーベル賞を受賞するはるか以前から知っていた。

1912(大正元)年、辛亥革命によって清朝が滅亡、民族意識の高まりとともに、日本人への排斥運動が強まり、三島らは1915(大正4)年、すべてを捨てて帰国した。無一文になって郷里に戻った三島は、気が抜けたようになってしまった。

ある日、三島は大阪のミルクホール(喫茶店)で、日本に入ってきて当時話題の「ヨーグルト」を食べた。「蒙古のジョウヒのほうがよっぽどおいしいやないか」、一口食べて三島はそう思った。「ジョウヒを日本に紹介しよう」、三島は青春の夢がよみがえった気がした。

友人や恩師をまわり、200円ずつの出資を募り、3000円の資金を作ると、1916(大正5)年38歳の時、上京した。そして、「ジョウヒ」を「醍醐味(だいごみ)」と名づけ「醍醐味合資会社」を設立、文京区本郷の牛乳店に間借りし、製造・販売を開始した。

三島は雑誌「実業之日本」で「醍醐味」を紹介することに成功、実業之日本社はあわせて「醍醐味」の販売も引き受けてくれ、「醍醐味」は一躍東京中の評判となった。しかし一気に大量の注文が舞い込んだことで製造が追いつかず、混乱を引き起こし、「醍醐味」は販売中止に追い込まれてしまった。

当時は酪農家の数が少なく、大量の牛乳を確保することが難しかった。クリームは牛乳18リットルに対して1.8リットルしか取れない。注文をこなすほど原料の仕入れが間に合わなくなり、三島は窮地に立たされた。

しかし三島はあきらめず次の手をじっと考えた。そして目を付けたのが、クリームを取った後に残る脱脂乳だった。クリームを取るたびに出る大量の脱脂乳の処分にはいつも頭を悩ませ、結局捨てていた。

帝国大学の衛生学研究室に協力を仰ぎ、1917(大正7)年、脱脂乳を利用した乳酸菌入りのキャラメルの商品化に成功した。しかし「醍醐味」で失敗した三島には製造手段が無かった。

三島は旧友の土倉から紹介された宝田石油専務の津下紋太郎にキャラメルの話をした。津下は出資に同意、三島は1917(大正7)年「ラクトー株式会社」(現 カルピス)を設立し、渋谷に小さな工場を作った。三島は大量に作ったラクトーキャラメルを持って小売店を回った。しかし結果は惨憺たるもので、人々の関心を得ることができなかった。

三島はキャラメルの失敗から、今度は脱脂乳を利用した飲料の製品化に取り組んだ。最初に試したのが脱脂乳を発酵させた飲み物で、シャンパンのような味がした。しかし、知人に試飲させると「問題にならん」と一蹴された。酸味が強すぎた。

そんなある日のこと、何気なく脱脂乳に砂糖を入れたまま、それを忘れてしまった。次の日それを思い出し飲んでみると、うまい。さらに2〜3日寝かせてみると、ますますうまみが増した。空気中の酵母が混入してほどよく発酵し、脱脂乳が自然に乳酸菌飲料に生まれ変わっていたのだ。
「これだ!」、試飲してもらうと、誰もがうまいと言った。

三島は商品化する腹を決めたが、今回は慎重だった。商品としての価値をより高めるために、どこまでも完璧を目指した。
脂肪が残っていると味が壊れるので、生乳から完全に脂肪を抜き取った。これに乳酸菌を加えて発酵させ、砂糖を足した。

さらに、三島が着目したのがカルシウムだ。当時欧米では、カルシウムの栄養価値が叫ばれ、わが国でもオリザニンの発見で名高い鈴木梅太郎博士が、日本人の食生活のカルシウム不足を指摘していた。かくして日本で初めてのカルシウム入り乳酸菌飲料が誕生した。

「苦心の末にやっと完成したこの飲料、何としても多くの人に飲んでもらわなあかん」、三島は、キャラメルの二の舞にならぬよう、新しい飲料を多くの消費者に知ってもらう"しかけ"、今でいうPR(Public Relations:宣伝、広報)に力を入れた。

まずネーミング。友人や知人の知恵も借り、「カルピス」と名づけた。"カル"はカルシウムから、"ピス"はサンスクリット語の"最上の物"からとった。

アイキャッチ(eye-catch:一目で商品やその広告主を連想させるもの)にもこだわった。店頭に並んだ時に、他の商品に埋もれてしまわないよう、瓶のまま置かずに、包装紙に包むことを思いついた。発売開始を7月7日とし、七夕から天の川の星々をデザインした水玉模様の包装紙とした。

さらに三島はカルピスを一言で表そうとキャッチコピー(catch-copy)を考えた。商品名と価格だけが記されているだけでは目立たないし、乳酸発酵飲料のように効能を説明的に記しても印象は薄い。三島は、カルピスを試飲した後輩の国語教師 驪城卓爾(こまき たくじ)の言葉を思い出した。

「三島さん、甘くてすっぱいカルピスの味は"初恋の味"だ。初恋とは清純で美しいもの、それに人々は初恋という言葉に夢と希望と憧れがある」。
当時としては斬新な「初恋の味・カルピス」。元国語教師の三島にはその言葉の持つ大きな力が理解できた。

ここまで考え抜いた上で、三島は、ツテをたどって当時最大手の食品問屋 国分商店と契約、1919(大正8)年7月7日、「初恋の味・カルピス」を関東で発売した。
こうして、甘くて酸っぱい「初恋の味・カルピス」は、国民的健康飲料として、不朽のヒット商品となっていった。

斬新なコピーと目立つ包装で人々の中に自然とカルピスは溶け込んだ。順調な滑り出しだった。三島は市場を全国に広げるための策を練った。しかし、広告・宣伝に対する人々の関心・信頼が低い時代、ハデな商品広告はうさん臭く思われるだけだ。三島は「信頼できる企業の商品」として訴えることが重要だと考えた。

1923(大正12)年45歳の時に、社名を「カルピス製造株式会社」に変更、商品名と会社名とを一致させた。また、メセナ(文化・芸術活動に対する企業の支援)のさきがけも行った。1922(大正11)年44歳の時、第1次世界大戦後のインフレに悩まされていたドイツの芸術家を救おうと、ドイツでカルピスのポスターを募集した。

三島は、約1500点の応募作を関東大震災後の東京三越や大阪の心斎橋の商店街で展示、大きな反響を呼んだ。さらに、3位入選だった画家 オットー・デュンケルのストローでカルピスを飲む黒人男性のデザインをシンボルマークに使った。
イカラなデザインと評判になり、以後1990年に使用を中止するまで、カルピスのシンボルマークとして人々に親しまれた。

三島は述懐している。「三島は宣伝の天才だ、と評されることがあるが、私は天才でもなんでもない。ただ人が宣伝・広告の効果をあまり重要視していなかったときに、私はカルピスに真剣に取り組み、あたかも私の心身がカルピスに対する情熱で、"火の玉"とも見えるように行動したに過ぎない」

カルピスはその後も伸び続け、発売5年目の1924(大正13)年46歳の時には初年度の15倍の売上、150万円を記録した。
しかし、「初恋の味」は戦争の時代には合わなかった。昭和に入ってから、不況や、戦争の激化による物価統制、砂糖不足などに苦しみ、三島自身も爆風により呼吸器を悪くし、戦後は経営の一線から退いた。

1956(昭和31)年78歳の時、三島は社長に復帰、平和の時代と共にカルピスも勢いを取り戻した。現在では、『心とからだの健康』をコンセプトに、幅広く展開、飲料・食品業界のリーディングカンパニーとなっている。

三島は国民的な飲料カルピスが半世紀を経たのを見届けたかのように逝去した。
1974(昭和49)年、メチニコフが人の寿命とした120歳に24年も早い96歳の若さ?だった。
そのとき、「カルピスをもっと早くから飲み続けていれば・・・」と思ったかどうか。

三島海雲は、若い時はいろんな事業に手を出しているが、最後はカルピスに全精力を傾けている。何ごとも目標を絞り込んで一途に打ち込めば、大きな成果を生み出すということかもしれない。

企業において、事業を一本に絞るか、多角化するかは、決断を要するところだ。結局、考え方は大きく多角的な見地とし、実行においては小さく絞り込んで集中するのが成功への道であろう。


三島海雲のことば
  「 事業は金がなければできないが、
    正しい確たる信念で裏づけられた事業には、必ず金は自然に集まってくる」


三島海雲に関する本
  「カルピス」の忘れられないいい話―時代を映した感動の人生ドラマ
  「カルピス」の忘れられないいい話 感動の公募エッセイ集 (集英社文庫)
  広告図像の伝説―フクスケもカルピスも名作! (平凡社ライブラリー (291))
  モンゴルの白いご馳走―大草原の贈りもの「酸乳」の秘密
広告図像の伝説―フクスケもカルピスも名作! (平凡社ライブラリー (291))「カルピス」の忘れられないいい話 感動の公募エッセイ集 (集英社文庫)