豪放磊落

大西瀧治郎

きょうは海軍軍人で特攻隊を指揮した 大西瀧治郎(おおにし たきじろう)の誕生日だ。
1891(明治24)年生誕〜1945(昭和20)年逝去(54歳)。

兵庫県氷上郡芦田村(現 青垣町西芦田)で父 大西亀吉・母 うた の5人兄弟の第3子(次男)として生まれた。子供の頃から海軍を志し、「海の軍神」と称賛された広瀬武夫 中佐に心酔した。1910(明治43)年 旧制柏原中学校を卒業し、海軍兵学校に入校。第40期、1912(明治45)年7月卒業、同期生144人中20番目の成績だった。同期には、無二の親友 山口多聞 中将はじめ、宇垣纏 中将、福留繁 中将らがいる。

因みに、山本五十六(いそろく)は、海軍兵学校第32期で、大西の8年先輩にあたる。大西は、海軍士官の第一歩から一貫して、航空畑一筋の道を歩み、「海軍航空隊の育ての親」として半生をささげ、「山本の知恵袋」と言われた。
1916(大正5)年4月 横須賀航空隊勤務、1918(大正7)年 大尉に昇進、イギリスに留学した
「サイレント・ネービー」と言われるスマートな海軍軍人の中で、大西は極めて異彩を放っており、個性の強い武人として、数々の武勇伝を残した。海軍兵学校の訓練の名物「棒倒し」で、殴る蹴るの暴れ者として、山口多聞と並び兵学校内で畏怖され、「喧嘩瀧兵衛」の異名をとった。

大西は、海軍大学校を2度受験するが、2度とも不合格だった。学科試験に合格し、口頭試問を待つ間、横須賀の料亭で芸者をあげてドンチャン騒ぎ、芸者の態度が気に食わぬと頭をポカリとやったことで、気の強かった当の芸者が憲兵隊に訴え、新聞各紙に大きく記事が出てしまった。素行不良の理由で、落第通知が来て、大西の海軍大学への道は、永遠に閉ざされた。

1922(大正11)年 ワシントン軍縮条約の調印により、「大艦巨砲主義」全盛の時、日本は戦艦の保有量を対米の6割に制限された。日本海軍は、米海軍に対する劣勢を、制限外の基準排水量1万㌧以下の艦艇を多数建造するとともに、航空機を増強することで活路を見いだそうとした。そのための航空機の増産は勿論、多数の搭乗員を訓練せねばならなかった。

1924(大正13)年10月、大西 大尉は霞ヶ浦航空隊に赴任、12月少佐に昇進した。同年12月1日、山本五十六 大佐は、副長兼教頭で霞ヶ浦航空隊に赴任し、大西が航空に対する経験と知識に浅い山本の補佐役として活躍した。この時の1年間の勤務が、二人の信頼関係を築きあげた。大西は1926(大正15)年 佐世保航空隊飛行隊長になった。

この頃、大西は身を固める決心をし、才媛 淑恵との見合いをした。大西は顔に真新しい傷を付けてその席に現れ、芸者を大勢呼んで乱痴気騒ぎをした。破談かと思われるや、これが姑に大いに気に入られ、目出度く祝言をあげた。1927(昭和2)年12月36歳。結婚後も、酒を飲んでの喧嘩は日常茶飯事で、壮年まで続いた。

1928(昭和3)年 鳳翔(ほうしょう)飛行長、佐世保航空隊司令、横須賀航空隊副長、第2連合航空隊司令官となった。
1935(昭和10)年44歳の時、山本が海軍航空本部長に就任するや、片腕として大西を教育部長に指名した。しかし、山本が海軍次官に就任しても、「大艦巨砲主義」に歯止めはかからず、当時の国家予算の3%にあたる建造費を費やし、世界最大の6万㌧の戦艦「大和」の建造が決まった。

1939(昭和14)年48歳で少将に、1940(昭和15)年 第1連合航空隊司令官に昇進した。このころ大西は、「戦艦などさっさとやめて、戦闘機の1000機も作れってんだ。いまに見ておれ。すでに凄い飛行機が出来ておる」と、零戦の原型となる96式艦上戦闘機について語った。

1941(昭和16)年1月、当時第11航空艦隊参謀長を務める大西は、連合艦隊司令長官 山本五十六 大将から「真珠湾攻撃」の具体的な作戦計画の立案を依頼された。この時、大西は山本の指揮系統になく、いかに大西が、山本から信頼されていたかが窺いしれる。山本は、「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」と言った。

しかし、大西は真珠湾攻撃に賛成しなかった。第1航空艦隊参謀長 草鹿龍之介 少将とともに、当時の連合艦隊旗艦「陸奥」を訪れ、山本に作戦を中止するよう進言した。「米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう」

「日本は米国に勝つことはできない。米国は絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後の最後まで戦争をすれば日本は『無条件降伏』することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」
1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃の後も、大西は「真珠湾攻撃は失策」との考えを改めることはなかった。

1942(昭和17)年3月、大西は海軍航空本部総務部長に転出し内地に帰還、太平洋戦争終盤まで航空機増産に尽力した。1943(昭和18)年 中将に昇進、11月には軍需省航空兵器総務局長になった。
1944(昭和19)年10月、第1航空艦隊司令長官になり、マニラに赴任した大西は、可動わずか40機の航空兵力を前に愕然とした。

大西は、日本本土と資源地帯の南方との連絡線を何としても死守するために、零戦に250㌔爆弾を搭載し、隊員もろとも米艦に体当たり攻撃をする「神風特別攻撃隊」いわゆる「特攻隊」を編成した。直ちに、関行男 大尉以下24名の搭乗員が決定し、大西から訓辞が行われた。

「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、私のごとき長官でもない。それは諸子のような若く純真で気力に満ちた人たちである。皆は体当たりの結果を知ることができないのが心残りであるに違いない。諸子の戦果はかならず見届けて上聞(じょうぶん:天皇の耳にいれる)に達するようにする。一億国民にかわってお願いする。しっかり頼む」。豪胆で知られていた大西だが、体がふるえ、顔面蒼白で引きつっていた。

大西は、「特攻隊生みの親」として、戦後「暴将」「愚将」の汚名を着せられたりもしている。しかし、特攻は大西がマニラに着任する前から、海軍内で検討されてきており、様々な特攻兵器も開発されていた。
「人間の声価は棺を覆うて定まるというが、自分のような者は、百年ののちも知己はないだろう」と、大西は予言していた。

武人 大西瀧治郎 中将は、一切の責任を一身に負い、1945(昭和20)年8月16日未明、渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、介錯なしで割腹自決をする。
「特攻隊の英霊に曰す(のたまわす:申し上げる)、善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は 遂に達成し得ざるに至り 吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす・・・」で始まる遺書を残した。

大西瀧治郎は、豪放磊落(ごうほうらいらく:気性が大きく朗らかで小事にこだわらないこと)の人だったようだ。戦争という切羽詰った場面で、日本のため日本民族の存続のため、血涙を流し特攻隊を送り出した。
ところで、彼のような人物が今にいれば、どんな生き方をすればいいのだろうか。

企業においても、傑出した人物はいるはずであるが、たいていの場合は本人も含めて誰も気がつかず、フツーの社員として半生を過ごす場合が多いのではないか。
周りの人の能力、自分の可能性を見出す努力が足りないのではないか。


大西瀧治郎のことば
  「特攻は統率の外道である」
  「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
  「すがすがし 爆風のあとの 月清し」(辞世句)
  「之でよし百万年の仮寝かな」(遺書)


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