わかりにくいほどダントツ

石坂泰三

きょうは東芝を再建した財界総理 石坂泰三(いしざか たいぞう)の誕生日だ。
1886(明治19)年生誕〜1975(昭和50)年逝去(88歳)。

東京下谷上野に石坂義雄の三男として生まれた。東京府立一中(現 東京都立日比谷高等学校)、旧制一高独法科を経て、1911(明治44)年 東京帝国大学法科独逸法律科を卒業後、大学院にすすんで学業をおさめるかたわら、逓信省に入省、郵便貯金局書記に任官した。

1913(大正2)年27歳のとき 父親の友人 織田一の長女 雪子と結婚した。夫人には結婚式当日に初めて会い一目ぼれしたという。当時としては珍しく一週間の新婚旅行をして周囲を驚かしている。

1914(大正3)年28歳で高等官に昇進し、為替貯金局事務官補となった。この頃、岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁(きえん:きっかけ)となり、1915(大正4)年 逓信省を退官し、第一生命に入社、矢野社長の秘書となった。
1916(大正5)年30歳のとき、生命保険事業視察のため欧米諸国を歴訪、翌年9月に帰国した。その後、同社支配人、専務をへて、1938(昭和13)年52歳で、矢野会長のもとで取締役社長に就任した。こうして、1947(昭和22)年61歳で辞任するまでに、第一生命を中堅会社から大規模生命保険会社に成長させた。

敗戦後、公職追放の仮処分を受けたが解除された。また、首相 吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが拒否している。「官」に尻尾を振らないと決めていたようだ。
三井銀行頭取 佐藤喜一郎東京芝浦電気(現 東芝)社長 津守豊治の依頼で、1948(昭和23)年 東芝取締役、翌年社長となった。東芝は当時、経営不振と労働争議のため、倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾う形となった石坂は、真正面から組合と交渉し、6000人を人員整理、東芝再建に成功した。

1955(昭和30)年 日本生産性本部(1994年平成6年4月 社団法人 社会経済国民会議と統合、財団法人 社会経済生産性本部になる)初代会長に就任した。
1956(昭和31)年に石川一郎 初代経済団体連合会経団連)会長辞任を受けて、後任の経団連会長に就任し、1968(昭和43)年まで6期12年間つとめ、日本の高度経済成長と国際化に力をつくした。経団連会長を「財界総理」というが、それは石坂をもって嚆矢(こうし:物事の最初)とした。
風格、指導力、官僚の干渉を排除する姿勢など、歴代経団連会長中、最高の評価を受けている。

「財界総理」として、政治への発言、行動も躊躇せず、1956(昭和31)年には、日本商工会議所会頭 藤山愛一郎と共に、鳩山一郎 首相に対し退陣を求めた。また1960(昭和35)年の「60年安保闘争」では、「安保改定阻止国民会議」を中心とする反対運動の盛り上がりによって、アイゼンハワー アメリカ合衆国大統領の訪日が中止されるという緊迫した状況を受けて、経団連など経済四団体が「時局に対する共同声明」を発している。

1957(昭和32)年 石川島播磨重工業相談役、東京芝浦電気会長に就任した。1957(昭和32)年71歳の時アラビア石油会長に就任。1960(昭和35)年、東京オリンピック資金財団会長に就任。1963(昭和38)年77歳の時、日本工業倶楽部理事長に就任。1964(昭和39)年、日本が経済協力開発機構OECD)に加入し、それにともない、産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入、石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。

また同年、ボーイスカウト日本連盟総裁となった。1965(昭和40)年79歳の時、昭和天皇の御前で講義を行った。また、11月に三木武夫通産大臣の要請で、人選が難航していた日本万国博覧会協会会長を引き受け、1970(昭和45)年3月の「日本万国博覧会」開催に漕ぎ着けた。

石坂泰三は、勉強量が人並みはずれており、周りの人から「わかりにくい人物」と言われていた。周りの人がわかりにくいほどダントツな勉強量と頭脳レベルだったようだ。

企業においても、物事の説明において、その言い回しや単語が一般の人の知識レベルを超えている場合がある。しかし、指示を出したり説明したりする場合、相手が理解し納得しなければ意味がない。またどんな場合でも、理解でき納得したか確認する必要がある。

★「万国博覧会」と「変更」★
石坂は経団連会長の任期中に、大阪万博という大仕事を引き受けている。
ところが、これがさっぱりうまくいかない。暗礁に乗り上げたり、矛盾が出てくると、二進(にっち)も三進(さっち)も進まない。原因は担当者の官僚が身を堅くし「変更」を拒否し、企業の体質とぶつかることだった。特に関西の役人はふだんは陽気で勝手なことを言っているのに、組織のなかでは自分単位の半径しかもっていない。

これをどうしたら突破できるか。まず小坂善太郎に頼んで鈴木俊一を紹介してもらい、事務局長になってもらった。石坂によると、日本人には何かの「変更」を迫ると「もう決まったことですから」と「変更」を断る連中が7、8割はいるという。さらにどうしても「変更」を迫ると、「いや、そんなことをすると私の責任ということになりますから」と頑張る。これは責任をとろうとしているのでも、頑張っているのでもなく、責任逃れでしかない、と石坂は見抜いている。そのため、こういうときには「じゃあ、責任をとってもらっていいよ」と言うことにした。

これで人事が次々に一新できた。「それは私の責任ですから譲れません」と言う連中を、「じゃあ、責任をとってやめていいよ」と言うことにしたのだ。大阪万博は予定をはるかに上回る好成績で、6000万人を越える動員と200億円の黒字を生んだ。まさに「変更」による勝利だった。

◆「ハイジャック」と「変更」◆
一中・一高・東大・逓信省というエリートコースをへて、第一生命、東芝の社長をつとめ、経団連会長に推され12年務めた。
まさに代表的なトップ街道を走って順風満帆のように見える石坂が、
「まるで飛行機に乗るたびにハイジャックに遭った乗客のようなものだった」と語っている。
常に路線を「変更」させられた宿命を生き抜いた。

高度成長の熱に浮かれていた日本を「変更」によって、操縦し続けたパイロットだった。

石坂泰三のことば
  「人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない 」
  「経営者はラッキーな男であらねばならない」
  「ゴルフと英語のうまい奴にろくな連中はいない」
  「経済の基本は、まず豊かになること。日本経済のポテンシャリティーを信じ、
   拡大に全力を注ぐと同時に、経済秩序、道義、企業モラルの確立を図る」 


石坂泰三の本
  石坂泰三の世界 もう、きみには頼まない (文春文庫)
  堂々たる人―財界総理・石坂泰三の生涯 (講談社文庫)
  石坂泰三「ぼくは、仕事以外の無理は一切しない!」―戦後最高の経済人 (知的生きかた文庫)
  「無事是貴人」の人生哲学―石坂泰三語録
石坂泰三の世界 もう、きみには頼まない (文春文庫)