自分に与えられた使命感

諸橋轍次

きょうは漢学者で中国哲学諸橋轍次(もろはし てつじ、号:尚由子、止軒)の誕生日だ。
1883(明治16)年生誕〜1982(昭和56)年逝去(99歳)。

新潟県蒲原郡四ッ沢村(現 三条市)に諸橋安平の二男として生まれた。父に従い漢学の素養をうけ、静修義塾に入学、1899(明治32)年 小古瀬村代用教員、翌年 新潟師範入学。同校卒業後、東京高等師範入学、1908(明治41)年 卒業。その後研究科で主に儒学を研究、同附属中学校嘱託となった。

1919(大正8)年36歳のとき中国に2カ年留学した。このとき満足できる辞書がなかったことが、のちの漢和辞典の制作に繋がっていった。帰朝後1921(大正10)年 静嘉堂文庫長となった。また東京高等師範学校教授兼教諭、やがて市島塾々頭ともなり、郷党(きょうとう:郷里)の俊英を育成した。
1929(昭和4)年47歳で「儒教の目的と宋儒 慶暦至慶元百六十年間の活動」で東京帝国大学より文学博士を授与された。東京文理科大学助教授となり、翌年教授、1932年図書館長。1948(昭和23)年 青山学院大学教授に就任した。

1957(昭和32)年74歳の時 都留短期大学長となった。2年後に一旦退任するが、1960(昭和35)年、四年制大学への移行と同時に初代学長として就任し、1964(昭和39)年81歳まで務めた。

さかのぼって、1925(大正14)年42歳のとき、大修館店主 鈴木一平が訪れ、巨大な漢和辞典の構想を持ちかけた。この『大漢和辞典』編さんは、1928(昭和3)年からとりかかり、1943(昭和18)年、第1巻が完成した。収集した漢字は約6万字。収集した熟語は約120万語。440字詰の特製原稿用紙で約6万枚という凄まじさであった。

しかし1945(昭和20)年、東京大空襲で大修館が罹災。組み上がっていた印刷用の版がすべて焼け溶けてしまった。
しかし戦後、完成していた巻と、校正刷りをもとに再スタートした。諸橋は、1946(昭和21)年63歳のとき、長年の負荷が祟(たた)って右目を失明し、1955(昭和30)年に手術を受けた。

1960(昭和35)年77歳の時、『大漢和辞典』全13巻が完成し大修館書店から刊行された。編纂開始以来実に35年の歳月と、延べ25万8000人の労力、及び巨額の経費が注ぎ込まれて、『大漢和辞典』は完成した。
それにしても、原版焼失という重大な被害を被った諸橋の、作業完遂に向かう精神力は素晴らしい。毀誉褒貶(きよほうへん:ほめたりけなしたりの世評)はあれ、諸橋という人間の持つ偉大な人格こそが、『大漢和辞典』に命を与えていることは、否定できない。

「劫火(ごうか:大火災)によって一切の資料を焼失した。半生の志業(しぎょう:事業)はあえなくも茲(ここ)に烏有(うゆう:全く無いこと)に帰したわけである。しかし当時は上下を挙げて国難に当って居った時であるから、別に悔みもせず、又落胆もしなかった」
「祖国が既にかかる一代変故に遭遇したのであるから、一箇の私の事業などはいかなる運命になっても仕方がないと一時は諦めたが、その後、時の経つにつれて又別の考えが起って来た。それは著者としての責任感である。私は既にこの書の刊行を天下に公約した。現に第一巻を購入した多くの人々もある。それらの人々に対して、たとえ幾多の困難があるにしても、このままに事業を中止することは許されない。且つ又、従来この書に対しては深い同情を寄せて下さった多くの人々もあった。それらの人々に対しても同様である。」(『大漢和辞典』序文より)

1982(昭和58)年11月、大漢和のファミリー版である『広漢和辞典』(大修館書店刊)が刊行され、その一ヵ月後に亡くなった。生涯を通じて、漢学研究に情熱を傾けた諸橋博士は、学徳ともに高く、判断力のある人と評された。
文学を愛し、郷里をこよなく愛した博士は、今なお住民に深く敬慕され、現在、生家を含む小高い丘には記念館や庭園、道の駅などが建設され、一帯は「漢学の里」と称されている。

諸橋轍次は、中国で漢字辞典が無いことで不便を感じ、それが『大漢和辞典』の編さんにつながっているという。確かに不便さもあったのかもしれないが、やり始めて漢字の面白さや奥の深さを感じるとともに、自分に与えられた使命感のようなものが壮大な事業を完成させたのではないか。

企業においても、業務に取り組む姿勢として、お金とか出世という見返りばかりを考えるより、自分に与えられた使命として誠心誠意取り組む方が、いい仕事ができるし自分のためにもなる。また、いい仕事ができれば、やりがいもあるし、疲労感も少ないはずだ。


諸橋轍次の本
  大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付
  新漢和辞典 新装大型版
  中国古典名言事典 新装版 (辞典)
  孔子・老子・釈迦「三聖会談」 (講談社学術文庫)
  乱世に生きる中国人の知恵 (講談社学術文庫)
  ことばの海へ雲にのって―大漢和辞典をつくった諸橋轍次と鈴木一平 (PHPこころのノンフィクション 16)
  諸橋轍次博士の生涯
ことばの海へ雲にのって―大漢和辞典をつくった諸橋轍次と鈴木一平 (PHPこころのノンフィクション 16)乱世に生きる中国人の知恵 (講談社学術文庫)孔子・老子・釈迦「三聖会談」 (講談社学術文庫)中国古典名言事典 新装版 (辞典)