いつも二番手であった

宇井伯寿

きょうはインド哲学者で仏教学者 宇井伯寿(うい はくじゅ、本名:茂七)の誕生日だ。
1882(明治15)年生誕〜1963(昭和38)年逝去(81歳)。

愛知県宝飯郡御津町で農家の五男として生まれた。幼少のころから成績優秀であり、自ら進んで勉学に取り組んだ少年であった。お寺の和尚さんが「たとえわしの袈裟を質に入れても、お前は大学まで出してやる」と言ったそうだ。父親は伯寿が6歳の時に亡くなり、母子家庭で家計が苦しかったこともあり、1893(明治26)年11歳のとき 東漸寺(とうぜんじ)という曹洞宗のお寺に入山し仏門に入った。

伯寿という名前は得度(仏門に入ること)してつけられ、戸籍名でもあった。その頃の僧侶は戸籍名を勝手に変えられるほどの特権階級だったようだ。伯寿は、生家の方角の空が赤く夕焼けに染る頃、母恋しさによく涙をこぼしたそうだ。
伯寿は1906(明治39)年 東京帝国大学文学部印度哲学科へ入学し、彼のライフワークともいうべきインド哲学との出会いを迎えた。猛烈な勉強家で知られた伯寿の卒業論文高楠順次郎教授をして、「これこそ本当のアルバイト(当時は学術論文という意味で使われた)だ」と感嘆せしめたが、同期の木村泰賢が大変な秀才で首席、伯寿は次席で卒業した。

その後、同大学大学院へ進学し卒業した。
1913(大正2)年31歳の時 ドイツ チュービンゲン大学のガルベ教授の下へ留学し研究を深めた。さらに、一年で第一次世界大戦が始り、殆どの留学生が帰国する中、伯寿は一人戦禍を避けてイギリスに渡り、ロンドン、オックスフォード、ケンブリッジで三年間、全く独学で過ごした。
これまですべて寺の資金援助で勉学の道を歩んだ。

曹洞宗大・慶大などの講師をへて、1923(大正12)年41歳の時 東北帝国大学教授、1930(昭和5)年48歳で 東京帝国大学教、1941(昭和16)年59歳で 駒沢大学学長などを歴任し、教育者、研究者としての道を究め、日本の学術文化発展に貢献した。

1946(昭和21)年64歳の時 天皇陛下に御進講をした。
小坂井町にある曹洞宗東漸寺の第34代 住職であるともに、哲学や仏教学の研究を深めた。特にサンスクリット・パーリ原典・漢訳仏典の豊富な知識を駆使して仏教思想とその背後にあるインド思想を研究、原始仏教の縁起説の論理学的解釈を唱え、インド論理学を究明するなど、インド哲学研究の分野では、日本におけるパイオニアである。

伯寿は、死ぬまで三河弁丸出しで、若いうちから禿頭、田舎者そのものという感じであった。学風も風貌同様、一言一句もおろそかにしない厳密な考証に基く堅実無比な研究態度を貫いた。
伯寿の結婚についての記録は、宇井家の中にも外にも全く残っていない。結婚したのは留学から帰国の一年後くらいのことらしい。伯寿は35歳で母は20歳だった。

宇井伯寿は、優秀であったにもかかわらず、スマートで要領のよい同期の木村泰賢の存在により、いつも二番手であったようだ。伯寿が認められるようになったのは、皮肉なことに、木村泰賢が早世(早死に)した後だった。

企業においても、優秀でありながら同期かその前後により優秀な人がいた場合は、いつも「その次」になってしまう場合がある。運が悪いとか他所へ代わりたいなどと悩んでいても仕方が無いので、その他の自分が得意とする有利な条件を見つけ出し、それで差をつける努力をするのが得策だ。 



宇井伯寿の本
  印度哲学研究 (1)〜(12)
  大乗起信論 (岩波文庫)
  頓悟要門 (岩波文庫)
  禅の概要 (禅の講座)
  黄檗断際禅師伝心法要 (岩波文庫 青 336-1)
  禅と文化 (禅の講座)
  コンサイス仏教辞典