不安と孤独を漂わせる

フランツ・カフカ

きょうはチェコ生まれのドイツ語作家 フランツ・カフカ(Franz Kafka)の誕生日だ。
1883(明治16)年生誕〜1924(大正13)年逝去(40歳)。

オーストリアハンガリー二重帝国下ボヘミア王国(現 チェコ)の首府プラハで宝石商を営むユダヤ人の家庭の長男として生まれる。カフカとはチェコ語で鴉(カラス)のこと。「チェコ・ドイツ・ユダヤ三つの文化」の影響を受けて育った。当時プラハ公用語だったのはドイツ語であり、カフカもドイツ語を母語とした。

家庭は西欧的な同化ユダヤ人だったが、青年期までほとんど自らをユダヤ人と意識することはなかった。反ユダヤ暴動が起こった時もカフカの家は暴徒から「この家はドイツ人も同然だ」と見逃されている。
教育もドイツ語であり、6歳で家から近かった国民学校に入学。1893年 旧市街のドイツ系ギムナジウムに入学。1901年18歳でアビトゥーア(大学へ行くことができる国家資格)取得。プラハ=ドイツ大学(現 プラハ大学)で法学を学び始めた。

プラハ大学在学中の1902年19歳の時、生涯の友マックス・ブロートと出会った。大学では化学のほか少年期から興味のあった美術史やドイツ文学も学ぶが、将来の職業を考えて専攻は法律学だった。

1906年23歳で法学博士号を取得した後、地方裁判所の研修を経て、1908年からベーメン王立労災保険局に勤務。勤務態度は非常にまじめで、労働災害の減少を目的に書かれたイラスト入りの詳細な報告書を残している。

知人が彼について述べた言葉、「カフカ博士は非常に礼儀正しい紳士で、挨拶をすれば品のいい微笑とともに穏やかな会釈を返し、部屋がノックされれば、『はいれ』と怒鳴るのではなく、静かな声で『お入り』と言われた。感じのいい人で聖人のように思えるくらいだったが、いつもガラスの壁の向こうにいるように感じた」

勤務時間は早朝から午後3時ころまでで、午後から深夜までを「書くこと」にあてた。後には錬金術師小路に小部屋を借りて「書くこと」のための仕事場にしている。作品はすべてドイツ語で発表した。

1908年、隔月間誌『ヒュペーリオン』に「観察」が掲載された。1909年26歳から日記を書き始めた。9月にはブロートと北イタリア旅行をした。1911年にはブロートとスイス、北イタリア、パリに旅行。翌年、ライプツィヒ、ワイマールを旅行した。

1912年29歳の時、プラハでフェリーツェ・バウアーに出会い惹かれた。9月から文通が始まり、翌年にはさかんに手紙のやりとりをした。
この頃、次々と作品を書いている。

カフカは、1913年から1917年にかけて「拷問のような」頭痛発作に苦しんだ。この頭痛は「私の脳からスライスを刻んでいるナイフのようである」と言い、群発頭痛だった。しかし、これをマゾヒズムと混同されることもある。
1915年、兵役を免除されている。

カフカの作品に大きな影響を与えているのが、父との関係である。痩身長躯で芸術家肌の性格だったカフカは、恰幅よく活動的で貧しさの中から裕福な家庭を築いた父に対し、強い劣等感を持っていた。自分への無理解を嘆く言葉を連ねた非常な長文の手紙が「父への手紙」として死後出版された。

強力な家父長としての父の存在は、好きな女性との正常な関係を持つことにも悪影響を与えた。カフカは生涯に四人の女性と親密な関係になったが、そのいずれとも結婚することはなかった。

最初の交際相手フェリーツェ・バウアーとは2回婚約して2回とも破棄しており、その苦悩は『判決』の冒頭に「Fに」とだけ書かれた献辞から感じることができる。
1914年6月ベルリンで婚約、7月12日婚約破棄。1915年1月婚約破棄後初めてフェリーツェと会い、1916年7月マリエンバートで休暇をともに過ごした。1917年二度目の婚約、9月結核と診断され、12月婚約破棄。

1919年夏36歳の時、シナゴーグユダヤ教の教会のような集会所)管理人の娘 ユーリエ・ヴォフリゼクと婚約、1920年7月婚約破棄。
1923年、ドイツ・バルト海沿岸のミューリッツでユダヤ人女性 ドーラ・デューマントと出会い、9月ベルリンに引っ越しドーラと共同生活。1924年 健康状態が悪化し、3月プラハに戻った。

カフカの情熱は主に手紙によって表現され、日に二回書くことも稀ではなかった。興が乗った時は筆が速く、自らの書き方を「引っ掻く」と表現していて、相手からの返事を催促することもしばしばだった。その手紙はブロートの収集によって多くが残っており、カフカ文学の解釈にとって大きな手がかりとなっている。

カフカは肉体的劣等感のせいもあって健康には非常に気をつかい、ヒポコンデリー気味(心気症:自分の体調の異常にこだわり心配する神経症)なところがあったが、身体そのものは健康で、寒中水泳やハイキングなどを楽しんだ。

しかし1917年34歳の時に結核と診断され、労災保険局を退職、様々な保養地を回る生活になった。療養滞在のほかは生涯のほとんどを生地プラハで過ごしたが、死の前年に半年だけベルリンに移っている。プラハに戻った1924年6月3日結核により死去し、プラハユダヤ人墓地に埋葬された。

常に不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品世界は、「表現主義」的とも言われる独特の不条理さに満ちている。
代表作は「審判」「城」「アメリカ」「変身」などがある。

生前はリルケなどごく一部の炯眼(けいがん:物事をはっきりと見抜く力)の作家にしか評価されず、ほとんど無名だった。また、没後は未完の原稿を焼却処分するように遺言していた。

したがって、死後の1958年に友人 ブロートの編集した全集が刊行されるまで忘れられた存在だった。全集の刊行後、サルトルやカネッティなどに絶賛され、世界の文学界に衝撃を与え、20世紀ドイツ文学を代表する作家の一人と認められた。

フランツ・カフカは、労災保険局の役人だったが、書くこと以外の仕事をしなければならないことを苦にし続けた。
彼の作品には、「不安定な社会状況」「厳格な父」「女性の問題」「体を蝕む病気」、それらに対して「書くこと」で必死に抵抗しようと苦悩している姿が想像できる。

企業人においても、仕事の内容、人間関係、人事評価などいろんな悩みがあるが、それに家庭内の問題や自身の体調不良が重なると問題は相乗的に大きくなる。明るく前向きに業務をこなしながら、できることから解決していく努力が必要だ。

★社会状況★
カフカが生まれ育った転換期におけるプラハには、激しい民族的抗争の現実があった。
当時、経済的不況や急速な産業化、工業化、人口の都市集中などのさまざまな社会変動を背景として、自分の利益だけを声高に主張する各種の民族主義社会主義反ユダヤ主義が入り乱れていた。
特にハンガリーと並ぶ有力な民族であったチェコ人は、民族的独立が認められず、民族的不満が強い民族だった。この不満は特にプラハにおいて顕著に見られ、この都市はチェコ人の国土に打ち込まれたドイツ人支配の拠点の観さえあった。

そのプラハに住む少数派のドイツ人支配層に同化して懸命に社会的上昇を遂げようとしていたのが「ドイツ系ユダヤ人」だった。チェコ人からは「ドイツ人」として敵対視され、ドイツ人からは成り上がりの「ユダヤ人」として蔑まれる集団だった。
この中に、カフカの父 ヘルマン・カフカがいた。ドイツ人支配層への同化を望む父は、息子にも同じ道を歩ませようと、カフカをドイツ系小学校に入学させ、ドイツ語を学ばせ、大多数の市民がチェコ語を話す中においてドイツ語で生活させた。

以後、彼はドイツ語で作品を書いていくのだが、「借り物の言葉」であるという気持を生涯抱いていた。このような環境は、彼に特殊な感情を形成させ、「複数の文化の境界線上で生きざるを得なかった根無し草の『西ユダヤ人』」と言わせている。



カフカのことば
  「本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない」
  「書物には、自分自身の未知の広間を開く、鍵のような働きがある」
  「真のリアリティは常に非リアリスティックです」


カフカのDVD
  ストローブ=ユイレ コレクション 2 (階級関係) カフカ「アメリカ」より [DVD]
  20世紀の巨人[文学と思想] [DVD]
  20世紀の巨人 偉人列伝 カフカ~カミュ他 文学と思想 [DVD]
20世紀の巨人 偉人列伝 カフカ~カミュ他 文学と思想 [DVD]20世紀の巨人[文学と思想] [DVD]ストローブ=ユイレ コレクション 2 (階級関係) カフカ「アメリカ」より [DVD]


  
  
  
  
カフカの本
  変身 (新潮文庫)
  審判 (岩波文庫)
  城 (新潮文庫)
  回想のなかのカフカ―三十七人の証言
  世界戦争の予告 小説家カフカ
世界戦争の予告 小説家カフカ回想のなかのカフカ―三十七人の証言審判 (岩波文庫)変身 (新潮文庫)