地球とあそぶ達人

中谷宇吉郎

きょうは「雪は天から送られた手紙である」と言った実験物理学者 中谷宇吉郎(なかや うきちろう)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1962(昭和37)年逝去(61歳)。

石川県作見村字片山津(現 加賀市片山津町)に呉服・雑貨の店を営む父 中谷卯一・母 てるの長男として生まれた。父は中谷を九谷焼の陶工にしようと考えていたが、急逝したこと。旧制小松中学校、第四高等学校卒業を経て、1925(大正14)年25歳で東京帝国大学理学部物理学科を卒業した。

東大では寺田寅彦の指導を受け、実験物理学を専攻した。科学者としての姿勢、飽くなき好奇心、生き方、その多くを中谷は寺田寅彦から学び、受け継いだ。
中谷が、深く影響を受けたひとこと、「ねえ君、不思議だと思いませんか」。
また、寺田の「一番大切なことは、役に立つことだよ」という言葉を、中谷は終生大切にしている。「役に立つ」というその科学観こそ、その後の中谷の研究を大きく方向づけるものになった。

大学卒業後、財団法人 理化学研究所勤務、寺田研究室の助手として、電気火花の研究に従事した。1928(昭和3)年28歳の時、文部省在外研究員としてロンドンのキングスカレッジに留学。リチャードソン教授の指導を受け長波長X線の研究をした。1930(昭和5)年アメリカを経由し帰国した。

その年、30歳で新設の北海道帝国大学理学部助教授に赴任し、1932(昭和7)年教授となった。もともと原子物理学が専門だったが、その頃から雪の研究を開始した。きっかけは、アメリカの農民ベントレーが一生をかけて撮り続けた雪の結晶の写真集「Snow Crystals」だった。その結晶の美しさに中谷は強く感動した。

また、北海道大学では原子物理学の研究が困難だったことも影響していた。北海道にはその風土に合った研究があるはずだ、と考えたとき、そこに<雪>が見えた。その底には、中谷が北陸の雪国に生まれ育ったことも影響していた。

1933(昭和8)年からは上富良野町にそびえる十勝岳の山小屋「白銀荘」が、研究の舞台となった。馬そりで機材を運び上げ、白銀荘のベランダに雪で固めたテーブルを作り、撮影装置を据え付けた。十勝岳の山小屋で3000枚に及ぶ天然雪の結晶の写真を撮った。

「真っ暗なベランダで懐中電灯を空に向けると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に落ちてくる。そして大部分はキラキラと輝いて、結晶面の完全な発達を知らせてくれる。
…何時までも舞い落ちてくる雪を仰いでいると、いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きて来る」

1936(昭和11)年3月12日35歳の時、零下50度の常時低温実験室において、世界で初めて雪の結晶を人工的につくることに成功し、六花の結晶を作った。
この装置の中で、独立した1個の雪結晶を成長させる役割を担ったのは、装置の上端から吊るした細い兎の毛だった。

自ら考案した二重ガラス円筒型結晶成長装置の中の気温と水蒸気の過飽和度の組み合わせを色々変えて実験し、この2要素をそれぞれ縦軸と横軸に取った図表上に各条件下で成長する結晶形の記号を示したものは、のちに「中谷ダイヤグラム」と呼ばれるようになった。

また、10月には人工雪を天覧(天皇が御覧になること)に供した。1938(昭和13)年、最初の随筆集「冬の華」、のちに「雪」を出版した。1941(昭和16)年41歳の時、ニセコアンヌプリ山頂付近で着氷の観測を開始した。
同年、「雪の結晶の研究」に関して帝国学士院賞を受賞。

1942(昭和17)年42歳の時、北大低温研の主任研究員(純正物理学部門)となった。1945(昭和20)年 終戦ニセコの着氷観測所を基にして農業物理研究所を発足させ、所長となった。

少ない雪は風雅だが、豪雪では楽しむどころではなく、毎年の雪の処理にうんざりする気持ちは、北国の人に共通する感情であり、中谷は、「役に立つ」ことが雪を研究する意味だと考えていた。
航空機への着氷の研究、土が凍ることで線路や道路が被害を受ける凍上の研究、さらに融雪をテーマとした農業物理の研究などに広がっていった。

1952(昭和27)年52歳の時、アメリカの雪氷凍土研究所(SIPRE)の顧問研究員となった。1954(昭和29)年54歳の時、ハーバード大学から「Snow Crystals(雪の結晶)」を出版し、中谷の世界的名声は不動のものとなった。1956(昭和31)年56歳のときハワイ・マウナロアの山頂で雪の凝結核観測を行った。

1957(昭和32)年57歳の時、アラスカのメンデンホール氷河の単結晶を使った研究を行い、グリーンランドに出かけて氷冠(アイスキャップ)の研究を始め、その後、1960年まで毎年グリーンランドに行き、氷の物理的性質の研究を続けた。

1957(昭和32)年57歳の時には、国際雪氷委員会副委員長に選ばれた。1959(昭和34)年59歳のときウッズホール研究所の「降水の物理」国際会議に出席。1960(昭和35)年60歳の時グリーンランドに出張。途中アラスカのメンデンホーン氷河を視察。帰国後、前立腺がんの手術を受けた。

1962(昭和37)年、「雪の研究」の姉妹編「氷の研究」のまとめを約三分の二成し遂げたところで、1962年 骨髄炎で逝去。「冬の華」などの随筆や、「霜の花」などの科学映画を通じて、科学の魅力をやさしく紹介した先駆者でもあった。

他界する直前まで、雪・氷・霜・霧・・・と変化する水のふるまいを追い続け、北海道の十勝岳からグリーンランドの氷冠 へと駆けめぐり、雪氷学の基礎を築いた。

楽しむことの名人は、研究のかたわら美しい書画を幾枚も描き、「雪」をはじめ多くの随筆を書き残した。その生涯はまさに「地球とあそぶ達人」と呼ぶにふさわしく、20世紀の日本が生んだもっともユニークな科学者のひとりだった。

「住みついてみると、北海道の冬は、夏よりもずっと風情がある。風がなくて雪の降る夜は、深閑として、物音もない。外は、どこもみな水鳥のうぶ毛のような新雪に、おおいつくされている。
耳をすませば、わずかに聞こえるものは、大空にさらさらとふれ合う雪の音くらいである。こんな夜は、長火鉢に貝鍋をかけ、銅壺に酒をあたためて、静かで長い夕食をとる」

中谷宇吉郎は、雪と氷の舞台で、世界に通じる先駆的で革新的な研究を行った。同時に、科学の何たるかを一般の人々に伝えた偉大なる<北の人>だった。
戦後の科学少年にとって、雪博士 中谷宇吉郎は神様のような存在だった。
しかし今、中谷の足跡は、ほとんど語り継がれていない。

子供たちの理科離れが言われて久しいが、今後の教育のあり方として考えなければいけない重要なテーマである。そして「ねえ君、不思議だと思いませんか」という言葉が、今の世代は当然ながら、次の世代、その次の世代と確実に伝えられていくことを、心から願いたい。


中谷宇吉郎の本
  中谷宇吉郎集〈第1巻〉先生を囲る話〜(第8巻)
  雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)
  中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)
  雪と氷の科学者・中谷宇吉郎
  冬の花びら―雪博士 中谷宇吉郎の一生
中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)中谷宇吉郎集〈第1巻〉先生を囲る話