夢を断ち切れず

山階芳麿博士

きょうは鳥類学者 山階芳麿(やましな よしまろ、旧名:山階宮芳麿王 やましなのみや よしまろおう)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1989(昭和64)年逝去(88歳)。

山階宮菊麿王の第二子として誕生した。幼い頃から鳥に興味を持ち、陸軍幼年学校、士官学校を経て砲兵将校となった。1920(大正9)年、臣籍降下(しんせきこうか:明治憲法下で、皇族が身分を失って皇族以外の臣民としての身分になること)して、山階侯爵の家名を賜った。

その後、陸軍砲兵中尉となるが、動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役し、東京帝国大学理学部動物学科専科に入学、動物学の基礎的な学問を学び、1931(昭和6)年31歳の時に修了した。
1932(昭和7)年32歳の時に「山階鳥類研究所」の前身である「山階家鳥類標本館」を設立、鳥類の研究に没頭し、積極的にアジア・太平洋地域の鳥類標本収集に努めた。1939(昭和14)年39歳の時から、北海道帝国大学の生物学教授 小熊捍(おぐま まもる)の指導を受けた。

そこで鳥類の雑種における不妊性の研究を行った。1942(昭和17)年42歳の時、「鳥類雑種の不妊性に関する論文」で同大学から理学博士号を受けた。

その後、鳥類の染色体の研究に取り組み、染色体を用いて分類する方法を鳥類の分類に導入し、国の内外から高く評価された。
1949(昭和24)年49歳の時に「細胞学に基づく動物の分類法」を著し、翌1950(昭和25)年、日本遺伝学賞を受賞した。

また、戦後のタンパク質不足の問題に対し、文部省から「ニワトリの増殖」について研究委託を受け、多産で肉質がよいニワトリの品種改良にも取り組んだ。
その他、バリケン南アメリカ原産のカモ科の食鳥)とアヒルの雑種ドバンの増殖研究にも力を入れた。

山階博士は、研究だけにとどまらず、鳥類保護にも熱意を注ぎ、日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、国際鳥類保護会議副会長、同アジア部会長などの役職を歴任した。

山階博士の主な著書として、1934(昭和9)年に「日本の鳥類と其生態 第1巻」、1941(昭和16)年に「日本の鳥類と其生態 第2巻」を出版。1986(昭和61)年には世界の全鳥類に和名を付けた「世界鳥類和名辞典」を出版した。

1977(昭和52)年77歳の時に、鳥学の世界のノーベル賞とも言われる、ジャン・デラクール賞を受賞。翌1978(昭和53)年には「世界の生物保護に功績があった」として、オランダ王室から第1級ゴールデンアーク勲章を受章した。

山階芳麿博士は、皇族から公爵に臣籍しながらも、鳥類に対する夢を断ち切れず、学問をやり直して研究に打ち込んだ。そして、鳥を通して食糧事情の改善をし、かつ自然環境の保護を行っている。

企業においても、ただ仕事をしてお金をもらって帰るだけでなく、業務を通して人の心を豊かにしたり、社会に役立つ気持ちで仕事をすることが大切だ。
仕事において夢を持つことができれば、これほど幸せなことは無い。

★ジャン・デラクール賞★ 
鳥学のノーベル賞と呼ばれ、鳥学の世界で最高の勲章。
この賞は1967年(昭和42)年 国際鳥類保護会議(ICBP)が設けたもので、鳥学(Ornithology)、保護(Conservation)、保護のための増殖(Aviculture)の三つの分野すべてに世界的な貢献をした人に授与される。

この賞はキジ類や水鳥の研究で世界的に知られ、国際鳥類保護会議の第2代目の会長を20年も務め、その他いくつかの国際団体の会長も務めたフランス人 ジャン・デラクール博士(1890年-1985年)の業績を讃えて名付けられた。
基金は、デラクール博士が自ら拠出し、それを国際鳥類保護会議の米国支部が管理し、同支部に設けられている選考委員会において、満場一致で推薦されることが条件となっている。 

第一回(1968年)の受賞者はノーベル賞受賞者でもあるオーストリアのコンラート・ローレンツ博士、第二回(1970年)の受賞者はイギリスのフィリス・バークレイスミス女史、第三回の受賞者はベルギーのレオン・リペンス伯爵、そして、第四回(1977年)の受賞者として、日本の山階芳麿博士が選ばれた。
以後、受賞者は今日まで出ていないことから、この賞の選考条件が厳しいことがうかがえる。



山階芳麿の本
  世界鳥類和名辞典
  全集日本野鳥記〈8〉
  野鳥と生きた80年―鳥類の研究と保護に生涯をささげた山階芳麿 (PHP愛と希望のノンフィクション)
  <おもしろくてためになる>鳥の雑学事典
<おもしろくてためになる>鳥の雑学事典野鳥と生きた80年―鳥類の研究と保護に生涯をささげた山階芳麿 (PHP愛と希望のノンフィクション)